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光と闇 [『ふりむけば他力』(その88)]

(12)光と闇

 あるがままの世界(仏教の縁起の世界、カントの物自体の世界)は「知る」ことができないことを考えているところです。それは「知る」ことができず、ただその存在に「気づく」だけであるということです。それを「気づかされる」と言いましたのは、「気づき」は「こちらから」は起らず、「むこうから」やってくるしかないからです。「気づき」はもちろん「わたし」に起りますが、「わたし」が起こすことはできないということです。そのあたりの消息を「光と闇」のコントラストで考えてみたいと思います。
 『創世記』のはじめに「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、よしとされた。神はその光と闇とを分けられた」とあります。さて、もし神が「光あれ」と言われる前に誰かがいたとしましたら(それは『創世記』の想定に反しますが)、その人はどんな世界にいたのでしょう。光の世界でないのはもちろんですが、では闇の世界にいたのでしょうか。否です。彼は光を知らないのですから、闇を知るはずがありません。ですから彼は光でも闇でもないノッペラボーの世界にいたと言うしかありません。彼が闇の世界にいることに気づくのは、光に遇ってからのことです。光に遇うとき、同時に闇に遇うのです。
 今度は深海魚のことを考えてみましょう。彼らも生まれてこのかた一切光の差さない世界に生きていますが、しかし闇の世界にいるとは思っていないでしょう。光の世界でないのはもちろんですが、しかし闇の世界でもない、何とも名づけようのない世界に生きています。その彼らが闇の世界にいることに気づくのは、どこからか思いもかけず光がさし込むときです。そのときはじめて「ああ、闇の世界にいたのか」と気づくのです。この気づきは「こちらから」は起りません、「むこうから」やってきた光に否応なく「気づかされる」のです。
 われらは生まれてこのかたずっと分別の世界(カントのいう現象界、眼鏡越しの世界)に生きてきて、それ以外の世界のありようを知りません。ところがあるとき不思議な光がさし込み、そのときはじめて「ああ、これまでずっと分別の世界に生きてきたのか」と気づかされます。そしてその気づきは同時に分別の世界ではない世界、縁起の世界(カントのいう物自体の世界、眼鏡越しではない世界)に気づくことでもあります。

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