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他力の物語 [『ふりむけば他力』(その116)]

(12)他力の物語

 弥陀の本願という「他力の物語」を語るのが『無量寿経』ですが、その要点をかいつまんで述べますと次のようになります。
 法蔵菩薩が世自在王仏のもとで、一切の衆生が救われることがなければ自分も仏にならないという超世の誓いをたてられ、そのための手立てを気の遠くなるほど長い間考えられました(五劫思惟)。そうしてすばらしい救いの浄土が構想されましたが、さて問題はどのようにして十方の衆生をその浄土へ往生させるかということで、そのために用意されたのが「ひかり(光明)」と「こえ(名号)」でした。十方の衆生を無量のひかりで照らし、そして十方の諸仏が阿弥陀仏を讃えるこえ(「南無阿弥陀仏」です)があらゆる衆生に漏れなく届くようにするということです。それが実現するようきわめて長い間(兆載永劫)修行をされた結果、今から十劫の昔にその誓願はめでたく成就し、法蔵菩薩は阿弥陀仏となられました(十劫正覚)。かくしてわれら一切衆生の救いが成し遂げられたのです。
 これが「他力の物語」ですが、それを大きく二つの部分に分けることができます。ひとつは法蔵菩薩の誓願により浄土が設えられたということ、もうひとつがその浄土へわれらが往生するために「ひかり(光明)」と「こえ(名号)」が用意されたということです。どれほどすばらしい浄土が建立されたとしても、そこにわれら衆生が往生するすべがなければ絵に描いた餅に終わりますから、詮ずるところ、この物語の肝は「光明と名号」にあると言っていいでしょう。すなわち、われらは弥陀の光明と名号により救われるということ、これです。
 さてしかしここで深刻な疑問が生じるに違いありません。法蔵菩薩により一切衆生の救いが誓われ、それが十劫の昔に成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたということは、われら一切衆生の救いがとうの昔に実現していることになりますが、すでに救われている人がいるのは認めるとしても、われらがみな救われているとは到底思えない、という疑問です。その疑問はこう言い替えても同じです、弥陀の光明と名号が十方衆生に届けられているとのことですが、わたしにはそんな「ひかり」も「こえ」も届いていません、という人がいることをどう考えればいいのでしょうか、と。いや、だからそれは物語なのですよ、で済ませてしまっては、この「他力の物語」がわれらに伝えようとしているもっとも大事なメッセージが台なしになってしまいます。

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