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はじめての『教行信証』(その153) ブログトップ

2013年12月28日(土) [はじめての『教行信証』(その153)]

 ここで、先ほどの疑問、どうして真実の教えの他に仮の教え、方便の教えを説かなければならないのかという疑問に答えています。
 要するに、仏教の真実の教えは「はなはだもてかたく(難く)」また「はなはだもてまれ」だからというのです。仏教の真実の教えとは、言うまでもなく浄土の本願他力の教えのことで、これを信じることはほんとうに難しいということは、これまでもたびたび語られてきました。
 「あゝ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし」(総序)とか、「信楽受持すること、はなはだもてかたし。難のなかの難、これにすぎたるはなし」(行巻、正信偈)、あるいは「真実の信楽まことにうることかたし」(信巻)など。聖道門は難行道で、浄土門は易行道という常識からすると、「どうして?」と疑問に感じさせるところです。
 この難しさは独特のもので、すべて如来から回向されるというところに、この難しさの淵源があります。
 こちらから手に入れることでしたら、易しいことから難しいことまでさまざまでしょうが、向こうから与えられることには、そうした難易のものさしを超えた特別な難しさがあります。こちらからどれほど努力しても、だからといって与えられるわけではありませんから、とんでもなく難しいとも言えますし、気がついたらもうすでに与えられているのですから、とんでもなく易しいとも言えるのです。

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