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第18通第2段 [『末燈鈔』を読む(その249)]

(9)第18通第2段

 第2段に進みます。

 また弥陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人のおほせにてさふらへ。かやうに義のさふらふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえてさふらふ。また他力とまふすは、仏智不思議にてさふらふなるときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえさふらふなることは、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらずさふらふ。しかれば義なきを義とすとさふらふなり。義とまふすことは自力のひとのはらかひをまふすなり、他力にはしかれば義なきを義とすとさふらふなり。
 このひとびとのおほせやうは、これにはつやつやとしらぬことにてさふらへば、とかくまふすべきにあらずさふらふ。
 また来の字は衆生利益のためにはきたるとまふす、方便なり、さとりをひらきてはかへるとまふす。ときにしたがひて、きたるともかへるともまふすとみえてさふらふ。なにごともなにごともまたまたまふすべくさふらふ。
 
 (現代語訳)また弥陀の本願を信じるについては、はからいのないことが正しいと法然上人が仰せられていました。こんなふうにはからいがあるようでは、他力ではなく自力だと思われます。また他力といいますのは、仏の智慧は凡夫の思いを超えているということですから、煩悩にまみれた凡夫がこの上ない悟りをひらくなどということは、仏と仏だけのおはからいで、とても行者のはからうところではありません。ですから、義のないことが正しいと言われるのです。義と言いますのは、自力の人のはからいのことですから、他力では、はからいのないことが正しいのです。
 この人たちの言われることは、わたしの全く知らないことですから、とやかく言うこともありません。
 また来という字は衆生利益のために来るということで、衆生済度のための手立てということです。悟りをひらいて娑婆に帰ると言います。ときによって来るとも帰るとも言います。何事もまたの機会に申しましょう。


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