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還相とは [「親鸞とともに」その22]

(22)還相とは

このように言いますと、「還相」とは布教のことかと思われるかもしれません。すでに救われた人がまだ救われていない人を救うはたらきをするというのですから。そこであらためて「人を救う」とはどういうことかを考えておかなければなりません、そもそもわれらに「人を救う」などということができるのだろうかと。しかし答えはもう明らかでしょう、われらにそんな力はありません。われらには自らを救う力はなく、ましてや人を救う力があるはずはありません。では還相とはいったい何か。

救いとは「ほとけのいのち」の目覚めに他なりませんが、これまで繰り返し述べてきましたように、われらは自ら目覚めることはできません。目覚めは自分「に」起っても、自分「が」起こすことはできず、そこには目覚めを手助けしてくれるすでに目覚めた人がいなければなりません。還相とはまだ目覚めていない人を目覚めさせるはたらきだと言ってきましたが、目覚めるのはその人自身であり、われらにできるのはそれを傍で手助けすることだけです。

ソクラテスの「産婆術」を思い出します。子を産むのはあくまで妊婦で、産婆はそれを手助けするだけであるように、ソクラテスも人々が自ら目覚めるのを傍から手助けするだけということです。「ほとけのいのち」の目覚めもまったく同じで、われらは「よきひと」(親鸞が法然をよんだことば)の手助けがあってはじめて目覚めることができるのです。ですから人を救うとは言うものの、自分の力で人に救いを与えるということではなく、人が救われる(目覚める)のを傍で助けるだけのことです。

「ほとけのいのち」の目覚めは「ほとけのいのち」の力(これを本願力と言います)によるのであり、われらはそのきっかけを与えるだけです。そしてわれらがそのようなはたらき(還相のはたらき)をするのも、そうしなければならないという義務感などではなく、もうそうせざるを得ない力を感じてのことです。これは「ほとけのいのち」に遇うことができた喜びは、もう自分のなかにとどまっていることができず、おのずから外に迸り出るということです。


タグ:親鸞を読む
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