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不来迎 [「『おふみ』を読む」その16]

(3)不来迎

どうして「聞其名号 信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」のそのとき「即得往生 住不退転(すなはち往生を得、不退転に住せん)」と言えるのか、それはそれに先立って如来の「至心回向」があるから。これが親鸞の深い受けとめでした。蓮如はそんなことにはまったく触れませんが(そもそも「おふみ」は煩わしい経文の解釈には首を突っ込みません)、「この信をえたるくらいを、経には『即得往生 住不退転』ととき」と言うとき、この親鸞の受けとめがもとにあるのは間違いないでしょう。そして曇鸞の「一念発起 入正定之聚」も同じで、一念帰命の信がおこるそのとき正定聚(不退転と同じです)の位につく、つまり往生が定まるということです。

以上を締めくくるものとして、不来迎と平生業成(へいぜいごうじょう)ということばが出てきます。これを浄土真宗の教えの核心をなすものとして取り上げたのは覚如、存覚父子で、蓮如はそれを継承しているのです。もちろん、その源は親鸞にあり、関東の門弟に宛てた手紙のなかに次のことばが出てきます、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」と(『末燈鈔』第1通)。

ここに親鸞以前の浄土教と親鸞浄土教をくっきり分けるメルクマールがあります。

親鸞以前の浄土教を象徴することばが源信『往生要集』の「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」でしょう。この娑婆世界には何の値打ちもない、眼をつむって辛抱するしかない、ただ念仏してひたすら臨終の来迎を待つのみ。これが浄土教をおおう空気でした。いまも浄土宗ではそう説かれるでしょうし、浄土真宗でもどうかするとそうした説教が繰り返されているのではないでしょうか。しかし親鸞ははっきり言います、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」と(この「さだまる」は「はじまる」の意味です)。


タグ:親鸞を読む
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