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至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり [『教行信証』「信巻」を読む(その93)]

(10)至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり


 そこで『大経』の第十八願にでてくる「至心」、「信楽」、「欲生」ということばが無意識のうちに発信しているものをキャッチするために、それぞれを構成している文字の豊かなニュアンスを汲みとろうとしているのです。しかし親鸞のこころのうちで起こっていることを再現するのはほとんど不可能であると言わなければなりません。たとえば「至心」の「至」について、そこから「真」と「実」と「誠」というニュアンスを汲み取っていますが、一体どこからそんなことが言えるのだろうと思います。字書のなかをどれほど探し回っても見つかりませんから、おそらく親鸞がこれまで読み破ってきた書物から彼のなかに沈殿しているそれぞれの文字の感覚を汲みだしているのでしょう。


「至心」は、それによく似た「至誠心」が『観経』にあり、善導が『観経疏』でそれを注釈していました、「至とは真なり、誠とは実なり」と(第5回、5)。親鸞はこれをもとに「至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり」としているに違いありません。「心」については「種」と「実」を上げますが、これもすぐ前のところで取り上げました『観経』の「是心作仏、是心是仏」がもとになっているのではないでしょうか。「この心作仏す、この心これ仏なり」ということばを、親鸞は「心が種となって仏という実になる、種としての心と実としての仏はひとつである」というように理解し、そこから「心とはすなはちこれ種なり、実なり」と注釈しているように思えるのです。


ともあれ「至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり」と「心とはすなはちこれ種なり、実なり」とを組み合わせ、そこから至心とは「まことの心」であり、それが種となって実を結ぶという意味が醸し出されてくることを示そうとしているのではないでしょうか。「信楽」と「欲生」についてはさまざまな字書(つかわれたものとして『説文解字』や『広韻』などが考えられます)を駆使しているようですが、それを一々追跡することにあまり意味があるとは思えません。とにかくそれぞれの文字にはものすごく豊かな意味が蔵されていることが分かり、それを組み合わせることにより思いもかけないニュアンスが立ち上がってくることが了解できます。



タグ:親鸞を読む
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