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「親鸞とともに」その48 ブログトップ

はじめに(5) [「親鸞とともに」その48]

第5回 性ということ

(1)はじめに

突然ですが、仏教で悪といいますと、次の十悪が上げられます。①殺生、②偸盗、③邪婬(よこしまな性のまじわり)、④妄語(うそ)、⑤両舌(二枚舌)、⑥悪口(ののしり)、⑦綺語(おべんちゃら)、⑧貪欲、⑨瞋恚、⑩愚痴の十です。今回考えたいと思いますのは③の邪婬、というより性的な欲求についてです。邪婬が悪とされるのは在家についてであり、出家にとっては婬すなわち性のまじわりそのものが四重禁の最初に上げられます。四重禁とは婬・偸盗・殺生・妄語の罪で、これを犯すと永久に僧伽(そうぎゃ、サンガ、僧団)から追放されるという最も重い罪ですが、特に出家に対して婬そのものが禁止される理由は明らかでしょう。出家とは家族のつながりを断って仏道修行に専念することですから、家族のつながりの根源としての性のまじわりを断つことが当たり前のこととして求められるわけです。

さてしかしこの禁止は人として非常に厳しいものがあると言わなければなりません。四重禁のなかの他の三つは十悪にも入っていますように、これを犯さないようにするのは人として当然と思われますが、邪婬はともかく、婬そのものは人間の欲求としてもとから備わっています。人間の三大欲求として食欲、睡眠欲と並んで性欲が上げられるなかで、食欲、睡眠欲を断つよう求められることはありませんが(釈迦が六年間の苦行として行ったのがこれらの欲求をすべて抑えるということでしたが、彼はそれを極限まで追いつめながら、結局のところ無益として中断したのでした)、性欲は抑止されるのですから大変です。もっとも実際に止められるのは性のまじわりであり、性の欲求そのものではありませんが、しかしこの二つはたやすく切り離せるものではありません。

イエスはこう言います、「『姦淫するなかれ』と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」(「マタイ伝」5章)と。まことに厳しいことばですが、しかし真実をついていることは間違いありません。かくして出家僧は己のうちなる性的な欲求を抑えつけながら仏道修行に励むことになります。


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