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歓喜地 [『教行信証』精読2(その173)]

(4)歓喜地

 この短い偈で「歓喜地を証して安楽に生ぜん」と詠っているところに、親鸞が龍樹を「よきひと」と仰いでいることがよく伝わってきます。龍樹は紛れもなく弥陀の本願に遇った人であり、それを『十住論』のなかに証言してくれていると喜んでいることが手に取るように感じられるのです。行巻のはじめの方にかなりのボリュームで『十住論』が引用されていましたが、なかでも親鸞のこころを強く打ったのが「ひとよくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちのときに必定にいる。このゆへにわれつねに念じたてまつる」という一節であったと思われます(偈の後半でこの文が取り上げられます)。
 仏を念ずれば、そのときただちに必定に入る、と言うのです。必定に入るとは、必ず仏となることが定まった位になるということですから、仏に遇い仏を憶念すれば、ただそれだけで、もう仏となることが定まると言うのです。こんなことが言えるのは、弥陀の本願に遇った人だけであると親鸞は感じたに違いありません。弥陀の本願に遇うということは、「ほとけのいのち」が個々の「わたしのいのち」を憶念してくれていると気づくことです。信国淳氏の本のタイトルをお借りしますと、「いのち、みな生きらるべし」と憶念されていることに気づくことです。「ほとけのいのち」から「いのち、みな生きらるべし」と憶念されていると気づいたから、個々のいのちが「ほとけのいのち」を憶念することができるのです。
 龍樹は必定に入ることを「如来のいえに生ず」と言います、「初地をえおはるを如来のいえに生ずとなづく」と(初地とは十地の第一位で、必定と同じです)。これも弥陀の本願に遇った人のことばとしか考えられません。弥陀の本願に遇うということは、いのちの故郷に帰るということです。故郷を離れて暮らしていた子どもが実家に帰ってきたときに感じる安堵感、これが弥陀の本願に遇うということですが、それが「如来のいえに生ず」ということばで表されています。そしてそれがまた歓喜地という言い方をされているところから、親鸞はここで「歓喜地を証して安楽に生ぜん」と詠っているのです。

タグ:親鸞を読む
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