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本願と信心はひとつ [「『正信偈』ふたたび」その107]

(9)本願と信心はひとつ

さて摂取の光明とは、弥陀の本願がわれらに届けられるかたちであることを思い起こしたい。「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」は、ただ「願い」としてあるだけではわれらを救う力になることができません。その「願い」がわれら一切の衆生に届けられなければなりませんが、そのとき「ひかり」(光明)というかたちと「こえ」(名号)というかたちとなってわれらのもとにやってくるのです。「正信偈」に「光明と名号因縁を顕す(光明名号顕因縁)」と言われているのは、本願が「ひかり」と「こえ」となってわれらに届くことにより往生の因縁となるという意味です。としますとここで摂取の光明と言われているのは弥陀の本願のことに他ならず、光明に摂取されるということは、本願に摂取されるということです。

本願を信ずるとは、本願に摂取され本願に生かされていると感じることですが、そのとき「摂取する本願」と「摂取されている自分」とはひとつになっています。

弥陀の本願と言われますと、われらはともするとそれを「どこかにあるもの」と考えてしまいます。どこか(西方十万億土)に阿弥陀仏がおわして、そこに本願の国があるというように。そのときわれらは本願を「見て」います。そして何かを「見る」とき、その何かは「体」すなわち実体です。しかし本願は「見る」ものではありません、わが身に「感じる」ものです。そして何かをわが身に「感じる」とき、その何かは「用(ゆう)」すなわちはたらきです。たとえば寒さを「感じる」とき、寒さは「体」としてどこかにあるのではありません、「用」として「いまここ」ではたらいています。同じように本願とは「体」としてどこかにあるのではありません、「用」として、「いまここ」で摂取するはたらきをしているのです。

本願は「いまここ」でわれらを摂取するはたらきをしていると感じること、これが信心であり、そのとき本願と信心はひとつです。あるいはこうも言えます、本願は信心となってわれらを救うと。

(第11回 完)


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