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本願のひとりばたらき [『教行信証』「信巻」を読む(その12)]

(2)本願のひとりばたらき


はたらきかける「法」と、はたらきかけられる「機」とが「一つ」になっていることが他力の信であることを確認しましたが、そのことについてもう少し考えを進めておきましょう。法である本願がなければ、機としての信心がないのは言うまでもありませんが、逆に、機の信心がなければ法である本願がないということです(百円コインには表がありますからその裏があるのですが、しかし同時に、裏があるからこそ表があると言わなければなりません)。もし法としての本願が「体」として存在するとしますと、それは機の信心がなくてもどこかにあると言えますが、本願は本願力という「力用」としてしか存在しないとしますと、そのはたらきを感じとる機の信心がなければ影も形もありません。機法一体とはそういうことで、ここに「信巻」の重要性があると言えます。


さて話はこれで終わりではありません。「序」で説かれた要点は、信心はわれら「に」起こるが、われら「が」起こすことはできないということでした。つまり本願がわれらにはたらきかけているのを感じとることもまた本願の力によるということです。われらの力で本願のはたらきを感じることができるのではなく、それもまた本願のはたらきであるということ。真宗ではよく本願の「ひとりばたらき」と言いますが、そのことを指しています。しかしここで深刻な疑問が生じます。本願はわれらにはたらきかけるだけではなく、それを感じとる力もまた与えてくれるとしますと、どうして本願を信じる人がいる一方で、信じない人がいるのかという疑問です。いや、それどころではありません、「正信偈」に「信楽を受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と言われるのはどういうわけでしょう。


ここで想い起こしておきたいのが、本願がわれらにはたらきかけると言ってきましたが、本願は直接われらにはたらきかけるのではなく、そこには名号が必要であるということです(第1回、3・4)。「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)とありますように、本願(ねがい)は名号(こえ)という形をとってわれらにはたらきかけるのです。ですから名号がわれらに届くには、その「こえ」を発してくれる「よきひと」がいなければならず、本願に遇うことは取りも直さず「よきひと」に遇うことに他なりません。



タグ:親鸞を読む
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