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おのづからしからしむる [『ふりむけば他力』(その12)]

(7)おのづからしからしむる

 親鸞はこの文章で「自然」を「おのづからしからしむる」と読みます。「然」は「しかり」「しかる」ですから、「自然」は「おのづからしかる」と読むのが普通だと思われますが、親鸞はそれを「おのづからしからしむる」とあえて使役の読み方をしているのです。「法爾」の「爾」も「しかる」ですから「法がしかる」ということですが、これまた「法がしからしむる」と読みます。この読みにはどんな思いがはたらいているのかを考えてみたいと思います。
 親鸞にとって「おのづから」とは「本願力により」ということで、何ごとも「行者のはからひ」ではなく「本願力のはからひ」によりそのように「しからしむる」と言っているのです。それを「本願力のはからひ」によりそのように「しかる」としますと、本願他力はわれらの外にあってわれらとは縁のないものと感じられます。ちょうど自然現象はわれらとは関係のないところで「おのづから」起りますが(風は「おのづから」吹いています)、そのように本願他力もわれらとは縁のないところで「おのづから」はたらいているように感じられます。それを「おのづからしからしむる」とすることにより、本願他力はわれらの内からはたらきかけ、われらが「みづから」そうするようにはうながしているというニュアンスになります。
 ここで「生かされている」という言い回しについて考えておきましょう。これは宗教の言説においてしばしばつかわれ、浄土真宗でも「本願力に生かされている」とはよく言われます。さてしかし、この言い回しは強い反感をもって迎えられることがあります。ある大学教師が学生に「生かされている」ということばの意味をきいたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」ということだと答えたそうです(『アンジャリ』39、「いのちを語る、いのちが語る」)。さもありなんと思いました。この言い回しはもはや「見えない力で生かせていただいている」という慶びのことばではなく、そのまま死にたいのに、たくさんの管につながれて無理矢理生きながらえさせられている末期患者をイメージさせるものとなったようです。

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