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「ともに」と「ひとり」 [はじめての『高僧和讃』(その54)]

(12)「ともに」と「ひとり」

 この和讃のおもしろいところは、「一切道俗もろともに」と「鸞師ひとりさだめたり」とのコントラストです。
 「ともに」と「ひとり」。「ともに」ならば「ひとり」ではないし、「ひとり」ならば「ともに」ではないだろうと思うのですが、「ともに」であると同時に「ひとり」でもあるということ。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなりけり」(『歎異抄』後序)を思い出します。親鸞「ひとり」のためならば、「みんな」のためではないし、「みんな」のためならば親鸞「ひとり」のためではないだろうと思えるのに、親鸞「ひとり」のためであると同時に「みんな」のためである。
 ここに気づきのおもしろさがあります。
 自分に気づきがあったのは、まったく自分ひとりのことです。気づきはその意味でどこまでも主観的なものです。でも、それは自分だけのことではないとも思います。自分に気づきがあったからには、他の人にもあるはずだと思います。自分にあったから、他の人にないのはおかしい、ということではありません。自分にあって、他の人にないのは不思議でも何でもありません。気づきとはそういうもので、たまたま自分に気づきがあっただけのことです。でも、自分にたまたま気づきがあった以上、他の人にもまたあるだろうと思うのです。
 「鸞師ひとりさだめたり」ということばには「千万人といえども、われゆかん」の気迫があります。たとえ自分以外のみんなが反対しても、それで信念が揺らぐことはないということです。でも、「千万人といえども」は「千万人とともに」と矛盾することはありません。いまは千万人が反対していても、それはただみんなが気づいていないだけのことで、いずれ気づくに違いありませんから、「千万人といえども」であることは間違いありませんが、しかし「千万人とともに」でもあるのです。

タグ:親鸞を読む
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