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「わたしの心」と「ほとけの心」は不一不異 [「信巻を読む(2)」その29]

(5)「わたしの心」と「ほとけの心」は不一不異

そして最後の「木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」ですが、これはどう理解すればいいでしょう。「木すなはち火となる」といいますが、生きている間に「わたしの心」がすっかり「ほとけの心」になってしまうことはないでしょう。そうなるのは「わたしのいのち」が終わるときのことであり、「わたしのいのち」がある限り「臨終の一念にいたるまで」「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」のままです。さてしかし、そんな「わたしの心」は「わたしの心」のままでそっくり「ほとけの心」となるのです。ここが微妙なところで、「わたしの心」がすっかり「ほとけの心」になってしまうのではありませんが、でも、「わたしの心」のままでそっくり「ほとけの心」となるのです。

龍樹の『中論』の言い回しをつかえば、「わたしの心」と「ほとけの心」は「不一不異」の関係にあります。これをイメージとして言いますと、「わたしの心」と「ほとけの心」は一枚の紙の表と裏の関係と言えます。紙の表と裏は「不一」ですが、しかしこれを二つに引きはがすことはできませんから、その意味で「不異」です。それと同じように、われらの信心は、表から見ればあくまで「わたしの心」であり、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」ですが、それをクルッと裏返せば、そこには「ほとけの心」があります。

「是心是仏」と言いますが、「わたしの心」と「ほとけの心」はもとから一つではありません。「ほとけの心」はどこかから「わたしの心」にやってくるのです。そして「わたしの心」に乗り移るのです。こんなふうに「わたしの心」に乗り移った「ほとけの心」が信心ですが、そのとき「わたしの心」と「ほとけの心」はもはや別ではありません。すなわち「不異」です。しかし決してすっかり一つになっているわけでもありません。一枚の紙の表と裏の関係であり、すなわち「不一」です。「行巻」に「帰命は本願招喚の勅命なり」とありましたが、このことばに帰命する「わたしの心」と招喚する「ほとけの心」が不一不異の関係であることがよく表されています。


タグ:親鸞を読む
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