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帰っておいで [「親鸞とともに」その26]

(2)帰っておいで

「おかえり」は家に帰ってきたときの挨拶「ただいま」に対する応答です。「ただいま帰りました」という挨拶に「お帰りなさい」と返答しているのですが、関西では、それとは別に、出かけるときの「いってきます(昔は、いてさんじます)」という挨拶に対して「おはようおかえり」と返答します。「ご無事で早くお帰りになってください」という意味ですが、ことばの元来の意味からしますと、まずこの「おかえり」があり、それに対して「ただいま」がくるのが順当です。「おはようお帰りなさい」と言われて送り出されましたから、「ただいま、帰りました」と言って帰宅するということです。

「おかえり」があって、はじめて「ただいま」があるということ、ここには大事なことが隠されています。まず「おかえり」という「よびかけ」があって、それへの返信として「ただいま」があるということです。『夕焼け小焼け』で言いますと、子どもたちが「お手てつないで、みなかえろ」と思うのは、「山のお寺の、鐘がなる」からです。その「ご~ん」という音が「はやくおかえり」とよびかけているのです。鐘の音を通して、お母さんの「帰っておいで」というよびごえが聞こえているから、元気よく「ただいま」と家に帰っていけるのです。もしこの「帰っておいで」というよびごえが聞こえなかったら、「からすといっしょに、かえりましょう」という思いが起こることはありません。

「帰っておいで」で思い出すのは、フランクルの『夜と霧』です。1944年のポーランドの冬は例年より寒さが厳しく、またほとんど食べるものを与えられないことから、アウシュビッツの囚人たちはバタバタと死んでいきました。そんななか、ごく少数の囚人が生き残ったのですが(フランクルもその一人です)、その人たちを生き永らえさせた最大の力は、どこかから聞こえてくる「帰っておいで」の声であったとフランクルは証言してくれます。故郷で自分の帰りを待ってくれている人がいると思えるから、「よし、帰ろう」という気力がおこり、それが生きる力となったと言うのです。「帰っておいで」というよびごえが聞こえるから「帰ろう」という思いが生まれること、そしてその思いが生きる拠り所となることを教えてくれます。


タグ:親鸞を読む
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