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「親鸞とともに」その87 ブログトップ

はじめに(9) [「親鸞とともに」その87]

第9回 縁ということ

(1)はじめに

われらが日々つかっていることばに仏教由来のものが数多くあることはよく知られています。前に「ありがとう」は「ありがたし(あることかたし)」であることについて考えましたが、今度は「ご縁がありましたら」の「ご縁」を取り上げたいと思います。これはもと「ヘートゥ(hetu)」、「プラティヤヤ(pratyaya)」という梵語を「縁」と漢訳したもので、この梵語は「因」と訳されることもあり、またあわせて「因縁」とされることもあります。さて問題はその意味ですが、どの仏教辞典を見ても「原因一般のこと」とされ、「因」と「縁」を分けるときは、「因」は直接的原因、「縁」は間接的原因を指すと言われます。前々から、こんなふうに「因も縁も原因という意味である」とされることに大きな違和感をもってきました、仏教の因縁と、われらが日常的につかっている原因は同じ意味だろうかと。

早い話、「ご縁がありましたら」を「原因がありましたら」に置きかえることができるでしょうか。やはり違和感があります。「ご縁がありましたら、またどこかでお会いしましょう」は自然な言い回しですが、「原因がありましたら、またどこかでお会いしましょう」はどうにもぎこちないと言わなければなりません。「ご縁がありましたら」は、「ご縁があるかどうか分かりませんが、もしありましたらお会いできるでしょう」ということですが、それを「原因がありましたら」と言うことはありません。ある結果があるということは、そこに必ず原因があるということですから(原因という概念はそういう意味でつかわれているのですから)、「原因があるかどうか分かりませんが、もしありましたら」という言い方は不自然になるのです。

これひとつでも因縁と原因は異なる概念であることが分かると思うのですが、実際にはいとも無造作にこの二つは同一視され、そこから仏教に関する言説にさまざまな混乱が生じているように思われます。そこで因縁という仏教の根本概念の意味するところを、原因概念とどこが違うかを含めてきっちり捉え、そのことばによって切り拓かれる世界を味わいたいと思います。結論を先取りしておきますと、親鸞の他力思想のもとはこの因縁にあるのです。


タグ:親鸞を読む
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