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懐疑論 [「信巻を読む(2)」その93]

(11)懐疑論

実徳の説の方が運命論の本質をより鮮やかに見せてくれます。阿闍世が父を殺したのは、父・頻婆娑羅自身にそのような宿命があったからだという論法は、どこかで読んだ次の話を思い出させます。あるムスリムのウエイターが不注意で皿を落として割ってしまったとき、こう言ったというのです、この皿はアッラーにより割れる運命に定められていたのであって、自分には何の責任もない、と。ここに運命論が責任逃れの論法であることがはっきりとあらわれています。それに対して宿業論は己の宿業を己自身として引き受ける思想です。

さて『涅槃経』はここでサンジャヤ・ペーラッティプッタを持ち出すのですが、そのつながりがよく分かりません。サンジャヤは六師外道の一人で懐疑論者として知られています(その弟子にサーリプッタ・舎利弗と大モッガラーナ・大目犍連がいたのですが、この二人は後にサンジャヤを離れて釈迦のもとに走り、それを知ったサンジャヤは「血を吐いた」と伝えられています)。懐疑論といいますのは、「来世はあるか」とか「霊魂は不死か」といった形而上学的な問いに対して「不可知」の立場に立つことですが、いまの場合、われらがそのなかに置かれている運命のありようは「不可知」であるということからここで取り上げられたのでしょうか。

宿業のありようも「不可知」です。「ちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなし」(『歎異抄』第13章)ですが、しかしそれがどのような宿業であるかは知る由もありません。しばしば「善因善果、悪因悪果」と言われますが、これはある特定の因により特定の果がおこるということです(それは普通の原因・結果の概念と同じです)。しかし宿業の思想(ひいては縁起の思想)では、何ごとも他のあらゆる事柄と縦横無尽につながりあっていると考えますから、その中から特定の因と果を取り出すことは不可能です。われらはその縦横無尽のつながり(縁)を引き受けて生きていくしかありません。


タグ:親鸞を読む
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