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無量のいのち [『教行信証』精読2(その143)]

(4)無量のいのち

 「わたしは無量のいのちに帰命します」という表明は、いま言いましたように、他の誰でもないわたしの表明ですが、しかしわたしが勝手に発信しているのではなく、むこうからやってきた信号を受信し、それに対して返信しているだけです。どこからやってきたのかといいますと、もちろん「無量のいのち」からで、「無量のいのち」から「わたしに帰命しなさい」という呼びかけがやってきて、それに対してすかさず「あなたに帰命します」と返信しているのです。
 このように言いますと、「無量のいのち」はわたしのいのちとは別にどこかにあるかのように思われるかもしれませんが、そう受け取りますと「わたしは無量のいのちに帰命します」という表明のもっとも大事なところが吹き飛んでしまいます。そうではなく、「無量のいのち」(これをこれまで「ほとけのいのち」とよんできました)と「わたしのいのち」は別のいのちではなく、同じひとつのいのちです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。
 さてしかしこのこと自体「ほとけのいのち」からの呼びかけがあってはじめて気づくことで、それまでは「わたしのいのち」はひたすら「わたしのいのち」であり、それ以外の何ものでもありません。
 最近よく話題になることですが、高速道路を走行中のドライバーがほんのちょっとしたことで他の車に対して向かっ腹を立て、追っかけまわしたり、あおり運転したりと嫌がらせをして、この間はそれがとんでもない事故につながってしまいました。どうしてそこまで腹を立てるのかと思う反面、自分にも程度の差はあれ似たようなこころの動きがあることを否定できません。たとえばスーパーの駐車場などで、自分勝手な動きをする車に邪魔をされたりしますと、自分でも驚くほど腹が立ちます。車というのは「わたしのいのち」を何倍にも拡張してみせる力がありますので、前に進もうとしている「わたしのいのち」が誰かに遮られたと感じたら、そのことに無性に腹が立つのでしょう。
 そんなとき「わたしのいのち」はひたすら「わたしのいのち」で、それ以外の何ものでもありません。「わたしのいのち」が他の「わたしのいのち」と角つきあわせ、思うままに生きようとせめぎ合うのです。

タグ:親鸞を読む
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