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如来の作願をたづぬれば [親鸞の和讃に親しむ(その94)]

(4)如来の作願をたづぬれば

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(第38首)

悲願のもとをたずねれば、苦悩の衆生をすてられず、回向を旨としたまいて、大悲心をば完成す

すぐ前のところで『歎異抄』第9章の「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」ということばを見ましたが、それがここで「苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて」と詠われています。如来はひとえにわれらの救いを願い(作願し)、われらはひとえに如来に願われているということ、これが「回向を首としたまひて」ということばで言われているのです。われらももちろん救いを願わずにはいられませんが、それは如来から願われているからであり、あくまで如来の願いが「首」(第一)であるということです。

しかし「ほとけのいのち」はひとえに「わたしのいのち」のことを願いつづけているとはどういうことでしょう。

「ほとけのいのち」とは「無量のいのち」であり、そのなかにあらゆる「わたしのいのち」が包摂されています。「ほとけのいのち」とは言うものの、それは「わたしのいのち」とは別にどこかにあるものではなく、すべての「わたしのいのち」を包み込むものですから、それは「わたしのいのち」そのものであると言わなければなりません。としますと、「ほとけのいのち」の願いとは「わたしのいのち」の願いの他にはなく、「わたしのいのち」が救われることが「ほとけのいのち」が救われることです。第18願の「もし生れずは、正覚を取らじ(若不生者、不取正覚)」は、「わたしのいのち」が救われなければ「ほとけのいのち」の救いもないということです。

少年・釈迦のことばとして「あわれ、生きものは互いに食みあう」が伝えられていますが、これは「わたしのいのち」たちは互いに食みあう宿命にあることを「ほとけのいのち」が「あわれ」に思っているということです。そんな自他相剋のなかにある有情を見捨てることなく、「回向を首としたまひて」つねにその救いを願っているのが「ほとけのいのち」です。


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