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「信巻を読む(2)」その28 ブログトップ

たとえば火、木より出でて [「信巻を読む(2)」その28]

(4)たとえば火、木より出でて

さてここで考えたいのは、曇鸞が「是心作仏、是心是仏」ということばを注釈するなかで出している「火と木の譬え」についてです。親鸞はこの譬えが、信心とは「ほとけの心」と「わたしの心」がひとつとなっていること(これが一心です)を表現して見事であると考え、これをここで出しているのに違いありません。そこでこの譬えが言おうとしていることを一文ずつ丁寧に読みほぐしていきましょう。「ほとけの心」が火、「わたしの心」が木で、「火、木より出でて」とは、木に火が点く時のように、「わたしの心」に「ほとけの心」が点火するということでしょう。近づいてきた火が木に乗り移るように、どこかからやってきた「ほとけの心」が「わたしの心」に乗り移るというイメージです。

次に「火、木を離るることを得ざるなり」ですが、火が木から離れてそれだけとして存在することができないように、「ほとけの心」は「わたしの心」とは別にそれだけとして存在することはありません(本願と信心はひとつです)。すぐ上で、近づいてきた火が木に移ると言いましたが、火がそれだけとして近づいてくることはありません、火のついた木として近づいてくるのです。そのように「ほとけの心」がそれだけで「わたしの心」にやってくることはありません、「ほとけの心」とひとつになった「わたしの心」がやってくるのです。そして火のついた木が近づいて、その火が別の木に乗り移るように、「ほとけの心」とひとつになった「わたしの心」がやってきて、その「ほとけの心」が別の「わたしの心」に乗り移るのです。そして乗り移った「ほとけのこころ」は「わたしのこころ」から離れることはありません。

次の「(火は)木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く」ですが、「ほとけの心」は「わたしの心」から離れることはありませんから、「わたしの心」を隈なく照らし出すということでしょう。親鸞の印象的な表現では「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たへず」(『一念多念文意』)という「わたしの心」のありさまを余すことなく照らし出し、われらは否応なくそれを眼のまえに突きつけられます。


タグ:親鸞を読む
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