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生死即涅槃 [『歎異抄』ふたたび(その112)]

(4)生死即涅槃


確かに生死と涅槃、煩悩と菩提はあからさまに対立しますから、それがひとつだと言われますと戸惑わざるをえません。光と闇はひとつだと言われると、何をたわけたことをと感じるように。しかしこの謎のことばにひと言つけ加えることでその言わんとすることがくっきり浮び上がらないでしょうか。それは「気づき」で、生死の気づきと涅槃の気づきはひとつとしてみるのです。生死と涅槃はひとつに結びつきませんが、生死の気づきと涅槃の気づきはコインの表と裏のように一体不離です。生死の気づきはかならず涅槃の気づきを伴い、涅槃の気づきもかならず生死の気づきを伴います。ちょうど光の気づきは闇の気づきを伴い、闇の気づきも光の気づきを伴うように。


闇に気づくだけで光に気づかないことがないように、生死に気づくだけで涅槃に気づかないということはありません。われらは生死の迷いのなかにあると気づくとき、同時に迷いから脱した涅槃のあることに気づいています。誰かがいま闇の中にいると気づいたとき、その人は光の存在にも気づいています。もし光に気づいていないとしますと、その人は闇の中にいるとも気づいていません。彼は光でも闇でもないノッペラボーのなかにいます。同じように、誰かがいま生死の迷いの中だと気づいたとき、生死の迷いのない涅槃の存在に気づいていないことはありません。もし涅槃に気づいていないとしますと、その人は生死の迷いの中にあるとも気づいていません。彼は涅槃でも生死でもないノッペラボーの中にいます。


「生死即涅槃」とは生死の気づきと涅槃の気づきはひとつということです。そして生死の迷いの中にいると気づいた人は同時に涅槃にも気づいているということは、生死の闇の中にいながら、すでに涅槃の光を浴びているということです。「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という親鸞の述懐は、「そくばくの業をもちける身にてありける」と気づくこと(生死の気づき)が、取りも直さず「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と気づくこと(涅槃の気づき)に他ならないと言っているのです。正信偈に「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とあるのはそういうことです。



タグ:親鸞を読む
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