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みな阿弥陀如来の本願力による [「『証巻』を読む」その41]

(10)みな阿弥陀如来の本願力による

親鸞はおそらくこの曇鸞の解釈に目からうろこが落ちる思いをしたことでしょう。そしてその眼で『浄土論』を最初から読み直したに違いありません。そうしますと、天親は主語を「往生浄土を願う菩薩」として語っていますが、この菩薩とは実は法蔵菩薩のことではないかと見えてきたのではないでしょうか。かくして親鸞は五念門の最後の回向についての文、「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就するがゆゑに」(このすぐ後に出てきます)を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを〈えたまへる〉がゆゑに」と読むことになります。われらが回向をするのではなく、法蔵菩薩がしてくださるというのです。

このように法蔵菩薩を主語として読みますと、本文の中の「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して」ということばや、「応化の身を示す」、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して」、「神通に遊戯して教化地に至る」はみな自然なものに思えます。ただしかし、そうするとわれらはどうなるのかという疑問が生まれてくるのは必至です。五念門はすべて法蔵菩薩が修め、五功徳門も法蔵菩薩が成就するとしますと、われら願生の行者は何もすることがなくなるではないかという疑問です。天親は明らかにわれらの行とそれによって得られる利益を説いているが、それと「みな阿弥陀如来の本願力による」こととはどのような関係になるのだろうかということです。

「みな阿弥陀如来の本願力による」としても、われらが阿弥陀如来を信じ、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の諸行をすることが否定されるのではないでしょう。弥陀を信じ念仏を申すのは紛れもなくわれらです。ただそれに先立って、「阿弥陀如来の本願力により」われらが弥陀を信じ念仏を申すようにはからわれているということです。われらのはからいで弥陀を信じ念仏を申すのではなく、「弥陀の御もよほしにあづかつて」(『歎異抄』第6章)弥陀を信じ念仏を申すのです。弥陀を信じ念仏を申すことがわれら「に」おこることは紛れもないことですが、それをわれら「が」おこしているのではないということです。

(第4回 完)


タグ:親鸞を読む
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