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賜りたる信心 [「『正信偈』ふたたび」その5]

(5)賜りたる信心

「行」が与えられるとは、本願とその名号が如来からわれらに届けられるということでしたが、では「信」が与えられるとはどういうことでしょう。

本願名号がわれらに送り届けられていても、われらがそれに「気づく」ことがなければ、それはわれらにはたらく力(救済の力)となることができません。どれほど本願名号に取り囲まれていても、われらが眠りこけていて、それに目覚めなければ、存在しないのと変わりありません。「信」とは本願名号に「気づく」こと、それに「目覚める」ことです。第十八願に「十方の衆生、心を至し信楽して」とありましたのは、われらがみな本願名号に気づくようになり」と言っているのです。

本願名号の「気づき」すなわち信心がおこるのは「わたし」ですが、しかし「わたし」がその「気づき」をおこすことはできません。

何かに「気づく」とは、それに「遇う」ことです。そして何かに「遇う」ことは、こちらからはからってできることではありません、あるとき「たまたま」遇うのです(「遇」は「たまたま」を意味する「禺」と「いく」を意味する「辶」が合わさり、思いがけず道で「あう」ことを指します)。そしてさらに何かにたまたま「遇う」とは、そこにそのような「縁」があったということです。「縁」という「見えないつながり」(赤い糸)は、われらが逆さまになっても自分でそれをつかみ取ることはできません。われらは「縁」につかみ取られるのです。

親鸞は『教行信証』の「序」において、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」と述べていますが、これは本願名号に遇うことは縁によるのであり、こちらからどれほど遇いたいと思ってもできることではないと言っているのです。だからこそ「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言わなければなりません。本願名号に遇う縁があったことはどれほど慶んでも慶びたりないということです。そして、これが本願名号の信心(気づき)は「わたし」がおこすことはできず、如来から賜るしかないということです。


タグ:親鸞を読む
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