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2013年10月12日(土) [はじめての『教行信証』(その76)]

(3)二種深信
 さて信巻は標挙の願として第十八願(至心信楽の願)を上げたあと、七高僧から曇鸞と善導、そして源信の文を引きますが、何と言ってもその中心は善導の「三心釈」と言われる部分です。
 三心とは『観無量寿経』に「かの国に生まれんと願う者、三種の心を発(おこ)さば、すなわち往生す。なんらか三となす」として上げられている至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)のことで、善導はその一つひとつについて注釈していくのですが、中でも深心についてのことばが圧倒的な力で迫ってきます。
 「深心というのは、深く信じる心のことです。それには二つの面があります。一つは、自身は現に罪深く迷える凡夫で、はるかなる過去よりずっと苦海に沈んで生死を繰り返し、そこから離れることなど思いもよらない身であると深く信じることです。二つには、阿弥陀仏の四十八願はこのような哀れな凡夫を疑いなく確実に摂め取ってくださるためのものですから、その願の力によって間違いなく往生することができると深く信じることです。」
 信じるとくれば、言うまでもなく本願を信じるということです。この善導の文で言いますと、二つ目の「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」と信ずることです。これを法の深信と言います。
 ところが善導はその前に、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と信ずることを上げます。これを機の深信と言うのですが、どうして法の深信の前に機の深信がくるのか。親鸞は信巻でそれを主題として取り扱っているわけではありませんが、ここに親鸞の他力思想を理解する最大のポイントがあることは疑いありません。

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