SSブログ
『歎異抄』を聞く(その58) ブログトップ

宿業の感覚 [『歎異抄』を聞く(その58)]

(5)宿業の感覚

 さて、親鸞は「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と言い、だから父母の供養のために念仏をしたことがないのだと言います。生きとし生けるものはみな「ひとつのいのち」を生きているのだから、わが父母だからといって特別に供養することはないということです。わが父母が死んだように、無数の人たちが、無数のいのちたちが、さまざまなかたちで次々と死んでいきます。それが無常の世の姿であるとはいえ、やはり傷ましいことですから、誰かの死に目に会いますと自然と手を合わせます。そこにも「ひとつのいのち」を生きているという感覚がはたらいているのです。
 これが宿業の感覚です。
 ぼくらは「ひとつのいのち」として、生まれては死に、生まれては死に、を繰り返してきたという感覚。そして、ただ生まれては死に、をくりかえしてきたわけではありません、無明の大夜のなかを、こちらにぶつかり、あちらに躓きと、業苦の限りをなめてきた。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」(善導)の「自身」を「一切の有情」とし、そしてその「一切の有情」に「世々生々の父母兄弟」を感じるところに宿業の感覚が生まれます。
 法蔵菩薩という人はこの宿業の感覚がとりわけ鋭い人ではなかったでしょうか。彼は生きとし生けるものたちを「世々生々の父母兄弟」と感じ、その父母兄弟たちが(もちろん自分も含め)罪悪生死の凡夫として「つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と感じた。そこで法蔵は「われ人ともに救われん(若不生者、不取正覚)」と願い、どうすればその願いが実現できるかを五劫思惟して、ついに自分自身が「南無阿弥陀仏」のことばとなって一切の有情のもとに届けられようという本願を立てた。そしてこの本願が成就して阿弥陀仏となったというのが『無量寿経』に説かれた宇宙救済の壮大なドラマです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その58) ブログトップ