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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [「『正信偈』ふたたび」その22]

(2)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

これまで見てきましたのは「はじめに『大いなる願い(本願)』ありき」ということでした。「大いなる願い」とは「生きとし生けるものみなが救われなければ、自分の救いもない」ということ、「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」ということでした。そして、われらひとり一人の「わたしの願い」の奥底にこの「法蔵菩薩の願い(本願)」がひっそり息づいているということに目覚めることが救いであると述べてきました。「わたしの願い」は「わたしの願い」のままで「ほとけの願い」と別ではないと気づくこと、ここに救いがあると。

さてこれは「わたしの願い」と「ほとけの願い」はまったく同一であるということではありません。もしそうでしたら「わたし」はもう「ほとけ」であるということになりますが、「わたし」は「わたし」である限り、どこまでも煩悩具足の凡夫です。親鸞は凡夫について、「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と言っていますが(『一念多念文意』)、そのように「わたしの願い」には自分勝手な欲望が満ち満ちていると言わなければなりません。

かくして「わたしの願い」と「ほとけの願い」はあくまで「不一」ですが、しかし同時に両者が「不異」であることもまた確かです。それはこれまで縷々言ってきましたように、「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそりと息づいているからです。われらはそのことにまったく気づくことなく、ただひたすらわがまま勝手な「わたしの願い」を実現しようと血道を上げてきたのですが、そしてそのなかで他の人の「わたしの願い」と相剋し、互いに傷つけあってきたのですが、あるとき、その「わたしの願い」の底の底に「ほとけの願い」があるのに気づくのです。そのとき「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不異」であることが明らかになります。

こうして「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不一不異」であると言わなければなりません。「わたしの願い」は「わたしの願い」のままで「ほとけの願い」であるといってきたのはそのことです。


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