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帰去来 [『歎異抄』ふたたび(その74)]

(4)帰去来

 「本願の光明」のなかを歩むとは「本願の名号」が聞こえるなかを歩むことに他なりません。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」(善導『観経疏』「二河白道の譬え」)という声が聞こえるなかを歩むのです。さて「ただちに来れ」という声が聞こえたということは、これから帰って行くには違いありませんが、しかし実のところ、もうすでに帰っているということ、このことを考えておきたいと思います。善導と同じ唐代の慈愍和尚のことばとして「まさしく弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値(もうあ)へり」とあり、そしてつづいて「帰去来(いざ、いなん)」とありますが(法照『五会法事讃』)、「ただちに来れ」と喚ぶ声が聞こえて「いざ、いなん」と思ったとき、心はもう帰っているのではないでしょうか。
 善導の『般舟讃』に「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり」とあり、親鸞はそれをもとに手紙に「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)と書いていますが、これは、「いざ、いなん」と欣ったそのとき、もうすでに心は帰っているということです。ぼくには次のようなイメージが浮びます。「弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値ふ」とき、もう浄土の門を入っています。この門は、さあ入ろうとして入るのではありません、ふと気づくと、もう入っていて、ふりむくと後ろに浄土の門があるのです。そして前には道があり、そこを歩むことになります。これが「無礙の一道」で、どこまでつづいているのか分かりませんが、おそらくはその先に滅度に至ることになるのでしょう。
 第7章の本文にもどりますと、この「無礙の一道」では「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし」とあります。天神・地祇は信心の行者を護ってくれ、魔界・外道も行く手を遮ることがないということですが、そうした善悪の無数の神々とは、われらをとりまく順・逆の境遇と捉えればいいのではないでしょうか。この道においては、順境にあろうが、逆境にあろうが、それに一喜一憂することなく、心安らかに歩んでいけるということです、なにしろ「弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値ふ」ことができたのですから。

タグ:親鸞を読む
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