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口伝ということ [『歎異抄』ふたたび(その3)]

(3)口伝というこ

 前置きはこれくらいにしまして、序を読みましょう。

 ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今(親鸞聖人在世の昔と、亡くなられてからの今)を勘(かんが)ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信(口づてに伝えられてきた真実の信心)に異なることを歎き、後学相続(後につづくものたち)の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識(縁ある仏道の師)によらずは、いかでか易行の一門(自力の聖道門ではなく、他力の浄土門)に入ることを得んや。まつたく自見の覚語(自分勝手な見解)をもつて、他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれを注(しる)す。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。(原漢文)

 「先師の口伝」ということばが出てきましたが、真実は口伝によるということ、ここに思いを潜めてみましょう。当然こんな疑問が浮ぶでしょう、別に口伝によらなくても、書物を読むことを通して真実が伝わることもあるではないか、と。実際、法然は善導の『観経疏』「散善義」の一節、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久遠を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」を目にするや、長年の疑問が一挙に氷解したと言われます。ですから法然の場合は「先師の口伝」によらずに、遠い昔のしかも異国の人の著した書物を通して真実に目を開かされたのです。
 しかし、法然のこの経験をよくよく考えてみますと、それまでは紙の上に静かに寝ていた文字があるときムクムクと起き上がり、声となって法然の耳にドシンと届いたということではないでしょうか。書かれたことばはその時点でそれを書いた人の手を離れて、いつまでも紙の上に留まりますから、いつでも必要な時にそれを読むことができるという便宜を与えてくれます。それに対して語られたことばは語る人と一体であり、その人が語り終えますとそこで消えてしまいます(ライブです)。しかしそのことばが聞く人のこころに届いたときのインパクトは書かれたことばからはえられません。
 釈迦の時代に遡り、書かれた文字と語られた声を対比してみましょう。

タグ:親鸞を読む
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