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つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなる [『歎異抄』ふたたび(その68)]

(6)つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなる

 それに対して親鸞はこう言うのです、「本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだしかるべからざることなり。そのゆゑは親鸞は弟子一人ももたず、なにごとををしへて弟子といふべきぞや。みな如来の御弟子なれば、みなともに同行なり」と。「親鸞は弟子一人ももたず」という文言は、この第6章とそっくり同じです。『口伝鈔』は覚如が如信(義絶された善鸞の子で、親鸞の孫にあたります)から口づてに聞いたことを記録したものとされますが、まったく同じことばが二つの書物に残されたことになります。弟子一人ももたない理由についても、ここでは「みな如来の御弟子なれば」とあり、『歎異抄』では「弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひと」というように、言い方は異なりますが、その趣旨はまったく同じです。
 親鸞はさらにこういいます、この頃は弟子でなくなると本尊や聖教をとりかえすことが当たり前になっているようだが、本尊や聖教というのは「衆生利益の方便」であるから(親鸞は自筆の名号本尊の裏に「方便法身尊号」と書いています)「わたくしに自専する」ものではない、と。またこうもあります、わたしの名前の書かれた本尊や聖教は、「法師にくければ袈裟さへ」の風情に憎々しく思い、山野に棄ててしまうかもしれないが、そのときには「そのところの有情群類、かの聖教にすくはれてことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし」と。このように、わたしの書いた本尊や聖教は如来の公共物であり、それを「凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかへすという義あるべからざるなり」というのです。
 ここに「如来よりたまはりたる」ということが非常に分かりやすい形で具体的に示されていると言えます。
 もういちど「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなる」ということばを味わってみましょう。誰が「よきひと」となるかはまったく縁によるということです。そして縁によるということは、それが前もっては分からないということで、ここに縁の本質があります。仏教辞典で「縁」を引いてみますと、「因とも言い、原因のこと、あるいは直接的原因を因、間接的原因を縁とすることもある」と書いてあります。因縁とは原因のことだというのですが、先回も述べましたように、ぼくは前々からこの説明に疑問を感じてきました、因縁と原因とは別概念ではないのかと。

タグ:親鸞を読む
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