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恩愛はなはだたちがたし [『歎異抄』ふたたび(その55)]

(2)恩愛はなはだたちがたし

 第4章は決して「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」こころそのものを否定するものではありませんでした。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」のは如来の本願力に由来するにもかかわらず、それを「自分の力」でなすものと思い誤ることを誡めていたのです。そのように第5章も「父母の孝養」そのものを否定しているのではないでしょう。否定するもなにも、われらは自然の情として父母を孝養せざるをえないようになっているのです。そうではなく、「父母の孝養」のために「わがちからにてはげむ善」として念仏することを否定しているのです。
 念仏は「父母の孝養」などのために「わがちからにてはげむ善」ではないと言っているのです。
 ここではしかしそのことに先だって、「父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候は」ざることの理由として、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟」であることが上げられます。これは、そもそも「父母の孝養」とは何かと問うているのです。われらが自然の情として恩愛を感じるのは「わが父母」であることは言うまでもありません。他の父母にはさほど親しみを感じず、それどころか憎しみを覚えることさえあります。そして「わが父母」が慕わしいのは「われ」自身が慕わしいからであり、「父母の孝養」とは、つきつめれば「われへの孝養」に他ならないと言わなければなりません。
 かくしてわが父母への恩愛とは「われへの囚われ(我執)」であることが明らかになります。「恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし」という和讃(『高僧和讃』「龍樹讃」)は、父母や家族に対する恩愛こそわれらを生死の苦海につなぎとめる強い絆であることを詠っています。「父母の孝養」はわれらにとってきわめて自然な情愛ですが、その一方で我執を孕むものであることを見失ってはならないということです。それが「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」ということです。


タグ:親鸞を読む
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