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すでにさとりをひらくといふこと [『正信偈』を読む(その45)]

(5)すでにさとりをひらくといふこと

 さて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」は「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらく」と同じでしょうか、同じではないでしょうか。
 ことばの意味としては、まったく同じと言っても差し支えありませんが、それぞれが述べられるコンテキストにおいて、そのニュアンスが微妙に違うのです。この微妙な違いにどこまでもこだわるところに「他力」の真骨頂があるのではないでしょうか。例えば禅の鈴木大拙氏なら「同じだ」と断言されるでしょう。「聞其名号、信心歓喜」の境地をどうして悟りと言わないのかと言われることでしょう。しかし例えば曽我量深氏なら「それはやはり違う」と言われるはずです。
 しかし、どう違うのか。
 微妙であるが故になかなかことばにならないのですが、こうは言えないでしょうか。「すでにさとりをひらく」と言いますと、世界が一変するというニュアンスがありますが、「一念喜愛の心を発」しても、世界は何も変わらないと。悟りを開くということは、仏になるということですから、これまでできなかったことができるようになったり、これまでしてきたことをもうしなくなったりという変化があるものと思います。でも、本願名号を聞かせてもらって、こころに喜びが溢れても、これまでできなかったことができるようになるわけではありません。これまでしてきたことをしなくなるわけでもありません。これまで通り、つまらないことに腹を立て、人より少しでも多くをと欲を起こしています。何も変わらない。
 では「涅槃をう」とはどういうことか。これまで何度も述べてきました「安心」が得られるということです。


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