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無礙光の利益より [親鸞の和讃に親しむ(その54)]

(4)無礙光の利益より

無礙光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる(第39首)

無碍のひかりに遇うことで、功徳大きな信をえて、煩悩の氷すでに解け、すなわち菩提の水となる

不思議なひかりに遇い、「無量のいのち」に気づきますと、煩悩の氷がとけて菩提の水となると詠われます。普通は(聖道門では)、ただ「煩悩すなはち菩提なり」と言われることが、ここでは「威徳広大の信をえて」、そのときはじめて「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」と言われています。とつぜん「煩悩即菩提」と示され、そこに真実があると言われても、われら凡夫は戸惑うばかりですが、その前に「信(気づき)をえて」があることで、まさに氷がとけるように「煩悩即菩提」が身に沁みてきます。つまり煩悩といい、菩提というのも、それ自体としてあるものではなく、「気づき」としてあるということです。煩悩も菩提も、それを煩悩と気づき、菩提と気づくことではじめて姿をあらわすのです。煩悩のもとは無明ですが、無明は、生まれてこのかたずーっとその中で暮らしてきたものにとっては(たとえば深海魚が生まれてこの方ずーっと真っ暗闇の中を生きてきたように)、無明でも何でもありません。ひかりに遇うことではじめて無明となるのであり、それが無明に気づくということに他なりません。これまで無明のただなかにいながら、それを無明とは気づかずに生きてきたのですが、ひかりに気づくと同時に無明にはじめて気づくのです。

このように煩悩(無明)の気づきがあるところ、同時に菩提(ひかり)の気づきもあり、逆に、菩提の気づきがあるところ、同時に煩悩の気づきもあります。このことは煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつにつながっていて切り離せないということです。煩悩と菩提がひとつだというのではありません(それでは何ともならない矛盾です)、煩悩の気づきと菩提の気づきがひとつだということです。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるというのも同じで、「わたしのいのち」の気づきと「ほとけのいのち」の気づきはひとつであるということです。「わたしのいのち」を生きていると気づいたとき、同時に「ほとけのいのち」に生かされていることにも気づいています。「ほとけのいのち」に生かされて「わたしのいのち」を生きていると気づくのです。


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