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法爾として真実の信楽なし [『教行信証』「信巻」を読む(その112)]

(4)法爾として真実の信楽なし

以上、「信楽は如来の心である」と言われたあと、次に「われらにはもとより真実の信楽なし」と述べられます、「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし」と。これは至心釈において「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」と言われたのときっかり同じです。われらには「清浄の心」、「真実の心」がないのですから、「清浄の信楽」、「真実の信楽」がないのは当然と言わなければなりません。

信心とは「疑いの濁りのない澄みきった心」のことですから、われらにはもとより真実の信心がないということは、われらの心は元来「疑いの濁りによどんだ心」であるということです。われらは否応なく「わたしのいのち」を生きていますが、そこに疑いの心の根っ子があります。「わたしのいのち」を生きるということは、他のいのちたちとの相剋を生きることに他なりません。他のいのちたちと争わずに仲良くすることだってあるじゃないかと言われるかもしれませんが、それはそうすることが「わたしのいのち」のためになるからにすぎず、そうではないことが分かればすぐさま相剋となります。そして自他相剋を生きるということは、つねに疑心暗鬼を生きるということです。

このように、われらには「法爾として真実の信楽なし」と言わなければなりませんが、そこで最後にこう述べられます、「如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり」と。「疑いの濁りによどんだ心」しかないわれらを哀れんで、如来の「疑いのない澄みきった心」が与えられるということです。かくして真実の信楽は如来から賜ったものであるということになります。至心も信楽も如来から回向されるという結論ですが、さてしかしこれで終わりとするわけにはいきません、まだモヤモヤしていることがいくつかあります。


タグ:親鸞を読む
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