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無明の酒にゑひたるひとにいよいよゑひをすゝめ [『末燈鈔』を読む(その158)]

(15)無明の酒にゑひたるひとにいよいよゑひをすゝめ

 第3段で手紙は終ったように感じますが(「あなかしこ、あなかしこ」と締めくくられています)、どっこいまだ続きます。言い足りないと感じたのでしょうか、追伸として、第2段で述べたことを繰り返しながら、さらにことばを接いでいきます。「無明の酒にゑひたるひとにいよいよゑひをすゝめ、三毒をひさしくこのみくらふひとにいよいよ毒をゆるしてこのめとまふしあふ」ことがどんなに他力の信心から遠いことかと。
 「むかしの本願がいまはじまる」とき、本願は単なる客観的真理ではなく、主体的真理となっていると述べました。そのことと「信心と本願は一体である(機法一体)」とをつなげますと、本願が主体的真理となるということは、それまではよそよそしい存在であった本願がいまわが身に届いたということですが、それが取りも直さず信心をえたということに他ならないのです。本願が届いたことが信心をえたこと。
 もし本願がいまわが身に届きませんと、したがって信心がすでに届いていませんと、本願はどこにもありません。くどいようですが、それは「信心があるからこそ本願が働くのだ」ということではありません。それでは信心によって本願をわがものにすることになります。そうではなく、「信心があることが取りも直さず本願があること」なのです。それを裏返して言えば、信心がないということは、本願もないということです。
 本願があるのだから、「善知識ををろかにおも」うことも、「師をそしる」ことも、「親をそしる」ことも、思うままにすればいいなどと考える人には、「むかしの本願がいまはじまる」ことはありません。その人には客観的真理としての本願はあっても、主体的真理としての本願は存在しないと言わざるをえません。「三毒をこのみくふて、いまだ毒もうせはてず、無明のゑひもいまださめやらぬ」状態にあるのです。


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