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かけがえのないいのち [「親鸞とともに」その16]

(16)かけがえのないいのち

頭に浮ぶのが少年時代の忘れがたい思い出です。ぼんやり外を眺めていますと、前の道を一匹の野良犬がトボトボ歩いてきます(当時は野良犬がたくさんいました)。その犬を見るともなく見ていましたが、次の瞬間、その犬が立ち止まってぼくの方をふり返り、見つめ合う形となりました。そのとき不思議な思いが立ち上がってきたのです、「どうしてあの犬はあの犬で、ぼくはぼくなんだろう」と。つまり「あの犬がぼくで、ぼくがあの犬であってもいいじゃないか」ということです。一瞬そう思っただけのことなのに、今でも鮮明に覚えているほど、ぼくの心のなかに残ったのです。

そのときぼくは、「ぼくといういのち」と「あの犬のいのち」は「ひとつ」であるという不思議に打たれていたと言わなければなりません。ぼくとあの犬は「ひとつ」ですから、ぼくがあの犬であり、あの犬がぼくであっても何の支障もないということです。ぼくは「たまたま」ぼくであり、あの犬は「たまたま」あの犬だということです。ここから出てきますのは、ぼくが「たまたま」ぼくであるのは何と「ありがたい(あることかたし)」ことかという思いです。

「かけがえのないいのち」と言います。しかし、すべてのいのちは「ほとけのいのち」として「ひとつ」であるということから言いますと、いくらでも「かけがえがあるいのち」と言わなければなりません。他のあらゆるいのちが「わたしのいのち」と入れ替わることができるのですから。しかし、だからこそ「たまたま」この「わたしのいのち」であることが「ありがたい」と思えるのです。どんないのちであってもいいのに、「たまたま」このいのちをたまわったことは何と「ありがたい」ことでしょう。「かけがえのないいのち」ということばのほんとうの意味は、「たまたま」このいのちをたまわったということです。


タグ:親鸞を読む
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