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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [「『証巻』を読む」その106]

(3)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

これまで繰り返し「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると言ってきましたが、としますと「わたしの願い」は「わたしの願い」でありながら、実は「ほとけの願い」であるということになります。もちろん、そんなふうに言うことができるのは、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づいたからであり、その気づきがなく、ひたすら「わたしのいのち」を生きていたときには、「わたしの願い」もただの「わたしの願い」でしかありません。そしてただの「わたしの願い」とは、「わたしのいのち」を如何にして他のいのちたちよりも優位におくかという体のものです。

しかし「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づきますと、「わたしの願い」も「わたしの願い」のままで「ほとけの願い」であることに思い至ります。そして、わたしがわたしの往生を願うには違いありませんが、実はほとけがわたしの往生を願ってくださっていることに気づいているのです。ほとけがわたしの往生という願いをおこしてくださっているから、わたしに往生の願いがおこるのであると。そしてまた、ほとけがわたしにおこしてくださった願いは、わたしだけの往生ではなく、一切衆生の往生であることにも気づいています。「わたしの願い」である限りは、わたしの往生という願いですが、それは同時に「ほとけの願い」ですから、一切衆生の往生という願いでもあります。

かくして「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づいたとき、その人は「ほとけの願い(本願)」を「わたしの願い」とすることになります。これが還相の菩薩に他なりません。第二十二願の「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧(よろい)を被(き)て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化(かいけ)して無上正真の道を立せしめん」という文言が蘇ります。ここで「その本願」と言われているのは、還相の菩薩の願いのことですが、その願いは法蔵菩薩の願いとひとつであることが了解できます。


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中動ということ [「『証巻』を読む」その105]

(2)中動ということ

われらが往生を願い、われらがその願いを成就するか、それとも法蔵菩薩がわれらの往生を願い、法蔵菩薩がその願いを成就するか。われらが往生を願うのか、それともわれらの往生は法蔵菩薩から願われているのかと問うのは、「能動か受動か」という問いです。このようにどんなことも、それは能動かそれとも受動かと問うことにわれらは慣らされています。それはわれらのつかっていることばがそのような構造、すなわち「能動態かそれとも受動態か」という構造をしているからです。しかしはたして事がらそのものがそのような構造になっているでしょうか。そのことを考えさせられたのは国分功一郎氏の『中動態の世界』からでした。

その本によりますと、インド=ヨーロッパ語族における動詞の態(voice)は、もともと能動態と中動態であったのが、紀元前4世紀ごろに能動態と受動態に変化したといいます。以来、能動態と受動態という構図が定着し、その結果、われらはものごとを能動であるか、さもなければ受動という見方をするようになったというのです。能動・受動は「する・される」の対ですが、ではそれ以前の能動・中動はといいますと、動作の「そと・うち」という対です。それをぼく流に言い替えますと、「わたしがおこす・わたしにおこる」となります。すなわち能動は「わたしが」ある動作をおこすのに対して、中動は「わたしに」ある動作がおこるということです。

さて、われらが往生を願うか、それともわれらの往生は法蔵菩薩から願われているかというのは「する・される」の対(能動・受動)でものごとを考えていますが、それを「わたしが願いをおこすか、それともわたしに願いがおこるか」という対(能動・中動)で考えることができます。そうしますと、往生の願いは他の誰でもなく「わたしに」おこっていますが(その意味ではまぎれもなくわたしが往生を願っていますが)、しかし決して「わたしが」その願いをおこしているのではなく、法蔵菩薩がおこしてくださっていることになります(それが本願です)。法蔵菩薩がわれらの往生という願いをおこしてくださっているからこそ、われらに往生の願いがおこるのです。


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第11回、本文1 [「『証巻』を読む」その104]

第11回 五念門と五功徳門

(1)  第11回、本文1

次は願事成就(がんじじょうじゅ)の章です。菩薩が障菩提心を遠離し、順菩提心をもって、その願事を成就することが説かれます。

願事成就とは、〈かくのごとき菩薩は智慧心・方便心・無障心(無障菩提心のこと)・勝真心(妙楽勝真心)をもつて、よく清浄仏国土に生ぜしめたまへり(普通は「生ず」と読む)と、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈(おう)()(知るべし)〉とは、いはく、この四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ(これも普通は「()」)、これ他縁をして生ずるにはあらず(他の功徳によるのではない)と知るべしとなり。

〈これを菩薩摩訶(ぼさつまか)(さつ)、五種の法門(五念門)に随順して、所作(こころ)に随ひて自在に成就したまへり(これも「成就す」、以下も同じ)と名づく。(さき)の所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業、法門に随順せるがゆゑに(浄土論)とのたまへり。〈随意自在(意に随ひて自在に)〉とは、いふこころは、この五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて(普通は「生ずれば」)、出没(しゅつもつ)自在なるなり。〈身業〉とは礼拝なり。〈口業〉とは讃嘆なり。〈意業〉とは作願なり。〈智業〉とは観察なり。〈方便智業〉とは回向なり。この五種の業念門和合せり、すなはちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまへりとのたまへりと。

ここでもまた普通の読みと親鸞独自の読みのコントラストが目立ちます。普通の読みでは、したがって天親・曇鸞の思惑としては、われら願生の行者が五念門を成就して清浄仏国土に往生するという意味になりますが、親鸞としては法蔵菩薩の願事が成就して、衆生を清浄仏国に往生させ、さらには還相のはたらきもできるようにさせると読むことになります。われらの願事が成就すると読むか、それとも法蔵菩薩の願事が成就すると読むかでは天地の差があるように思えます。前者ではあくまでもわれらが主体となってものごとをはからうのに対して、後者では法蔵菩薩のはたらきですべてが進められ、われらはその恩恵をこうむるだけですから。


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信心の慶び [「『証巻』を読む」その103]

(10)信心の慶び

楽を喜びに置き換えますと、外楽は感覚的な喜びであり、内楽は精神的な喜びですから、これは何の説明もなく分かりますが、さて法楽楽とはどのような喜びでしょう。曇鸞はこれを説明して「智慧所生の楽」であり、また「仏を縁じて生ずる」とも言っていますが、そこからしまして外楽・内楽は「わたしのいのち」が得てくる喜びであるのに対して、法楽楽は「ほとけのいのち」から与えられる慶びであると言えるのではないでしょうか。これまで見てきましたように、「わたしのいのち」は分別知を生きていますが、「ほとけのいのち」は無分別智そのものです。そして外楽も内楽も「わたしのいのち」がさまざまに分別して手に入れてくる喜びですが、それに対して、法楽楽は「ほとけのいのち」の無分別智が「わたしのいのち」に与える慶びです。

「わたしのいのち」を分別して生きる中で、さまざまな感覚的な喜び・精神的な喜びを得ていますが、それらとは別に「ほとけのいのち」の無分別智が与える慶びがあり、それが法楽楽すなわち妙楽勝真心です。ここから妙楽勝真心とは信心そのものであることが了解できます。ひたすら「わたしのいのち」を生きているとき、ふと「ほとけのいのち」に遇うことができ、ああ、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされて生きているのだと気づく。これが信心の慶びであり、妙楽勝真心の慶びです。このように見てきますと、還相の菩薩の心として上げられてきた障菩提門の三心も順菩提門の三心も結局のところ信心の慶びに他ならないことが明らかになります。

還相の菩薩は、遠離我心・遠離無安衆生心・遠離自供養心をもつなどと言われますと、とんでもなく大変なことのように感じられますが、これは要するに信心の慶びが与えられることであり、「オレが、オレが」という思いや「他人のことなどどうでもいい」という思いから「おのずから」遠離していくということを述べていると了解していいのではないでしょうか。

(第10回 完)


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第10回、本文4 [「『証巻』を読む」その102]

(9)第10回、本文4

名義摂対の章の後半です。

(さき)(おん)()()(しん)(とん)(じゃく)自身(じしん)遠離(おんり)無安(むあん)衆生(しゅじょう)(しん)遠離(おんり)供養(くよう)()(ぎょう)自身(じしん)(しん)を説きつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。諸法におのおの障礙(しょうげ)の相あり。風はよく静を()ふ。土はよく水を障ふ。湿はよく火を障ふ。五黒(五逆)・十悪は人天を障ふ(人・天に生まれることの障碍となる)。()顛倒(てんどう)(無常・苦・無我・不浄を常・楽・我・浄と思い誤ること)は声聞の果を障ふるがごとし。このなかの三種は菩提を障ふる心を遠離せずと(通常は「三種の不遠離は、菩提を障ふる心なり」)。〈応知〉とは、もし無障を得んと欲はば、まさにこの三種の障礙を遠離すべきなり。

〈向に無染(むぜん)清浄(しょうじょう)(しん)・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして、(みょう)楽勝(らくしょう)真心(しんしん)を成就したまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。楽に三種あり。一つには()(らく)、いはく五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)所生の楽なり。二つには内楽(ないらく)、いはく初禅・二禅・三禅(色界の四禅天のうちはじめの三禅天)の意識所生の楽なり。三つには(ほう)楽楽(がくらく)(法を聞く楽しみ)、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽(こぎ)ならず、顛倒(てんどう)せざるなり。

障菩提門の三心(遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心)は「遠離障菩提心」におさまり、順菩提門の三心(無染清浄心・安清浄心・楽清浄心)は「妙楽勝真心」におさまると述べています。すぐ前の文とのつながりから、この「妙楽勝真心」とは般若(智慧)すなわち無分別智の心であると理解できます。さてここで目を引きますのは、曇鸞が楽を外楽と内楽と法楽楽の三種に分けて説いているところです。外楽は六識の中の五識から生まれる感覚的な楽で、内楽は六識の最後、意識から生まれる精神的な楽ですが、妙楽勝真心はそのいずれでもなく法楽楽であると言われます。


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無分別智と分別知 [「『証巻』を読む」その101]

(8)無分別智と分別知

ところがあるとき「ほとけのいのち」に遇うことができますと、それで「わたしのいのち」でなくなるわけではありませんが、「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに目覚めます。一つの結び目である点ではこれまでと何の違いもありませんが、でもそれは重々無尽の網のなかの一つの結び目であることに気づいています。依然として「わたしのいのち」を生きていますから、分別知をもって生きるのはこれまでと変わりませんが、そしてまた自他相剋を生きることには何の変化もありませんが、それと同時に無分別智のなかにあり、したがってまた自他一如を生きていることに気づいています。必死に分別知をはたらかせながら、それがすべて無分別智のはたらきの上のことであると気づいています。

さて問題は「ほとけのいのち」すなわち無分別智に気づくことはどのようにしておこるのかということです。

「ほとけのいのち」の気づきは「わたしのいのち」〈に〉起こりますが、しかし「わたしのいのち」〈が〉起こすことはできません。その気づきは「ほとけのいのち」からやってきます。それは分別知から無分別智への通路はなく、ただ無分別智から分別知への通路が拓かれているということに他なりません。これがよく言われる「賜りたる信心」ということです。信心とは「ほとけのいのち」の気づき、無分別智の気づきのことですが、それは「こちらから」起こすことはできず、ただ「むこうから」やってくるしかありません。そのことを「賜る」と表現しているのです。

ここに他力の原義がありますが、他力を言い表そうとしますと「阿弥陀仏から賜る」というように擬人化に頼ることになります。親鸞はそれについてこう言っています、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり」(『親鸞聖人御消息』第14通、いわゆる「自然法爾章」)と。この「自然」は「他力」の意味ですから、弥陀仏という人格的な表象をもちいるのは、あくまで他力を言い表すためであると言っているのです。


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般若と方便 [「『証巻』を読む」その100]

(7)般若と方便

般若(智慧)とは「すべては一つにつながりあっている」と見る無分別智であり、方便とは「すべてはそれぞれに差別の相にある」と見る分別知です。先の重々無尽の網の譬えでいいますと、般若(智慧)は「すべては一つの網としてつながりあっている」と見ることで、方便は「それぞれの結び目は一つひとつみな別である」と見ることです。そして大事なことはこの両者は互いに他をまってはじめて完結するということであり、それがここでは「智慧と方便と、あひ縁じて動(どう)じ、あひ縁じて静(じょう)なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり」と言われています。そのことに思いを潜めたい。

ふたたび「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の対を持ち出しますと、「わたしのいのち」は「すべてはそれぞれに差別の相にある」とする分別知をもって生きていますが、「ほとけのいのち」とは「すべては一つにつながりあっている」とする無分別智そのものです。そして繰り返し述べてきましたように、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。「わたしのいのち」を一生懸命生きながら、同時に「ほとけのいのち」に生かされていますし、分別して生きながら、同時に無分別智に生かされているのです。

これはしかし「ほとけのいのち」に遇うことができてはじめて言えることで、それまではただひたすら「わたしのいのち」を生きています。他のすべてのいのちとの縦横無尽のつながり(これが「ほとけのいのち」です)に生かされているなどとは思いもよらず、この唯一無二の「わたしのいのち」を如何に生き永らえるか、どのようにして他のいのちよりも輝いて生きるかに血道を上げています。このように「わたしのいのち」を他のいのちよりも優位に置こうとした果てに、「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)ということになります。


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第10回、本文3 [「『証巻』を読む」その99]

(6)第10回、本文3

障菩提門、順菩提門の後に、名義摂対(みょうぎせったい)の章がつづきます。この間に出てきたさまざまなことば相互の関係を説く段です。

名義摂対とは、〈(さき)に智慧・慈悲・方便の三種の門は般若(はんにゃ)を摂取す(その中に収めている)。般若、方便を摂取すと説きつ、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈般若〉とは如(一如ものごとの真実の相に達するの慧の名なり。〈方便〉とは(ごん)実に対し方便のことに通ずるの智の称なり。如に達すればすなはち(しん)(ぎょう)寂滅(じゃくめつ)(心のはたらきが滅する)なり。権に通ずれば、すなはちつぶさに衆機(はぶ)く(通常は「衆機を省みる」)。機を省く(これも「機を省みる」)の智、つぶさに応じて無知なり(分別知ではないということ、無分別智)。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省く(「省みる」)。しかればすなはち、智慧と方便と、あひ縁じて(どう)じ、あひ縁じて(じょう)なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。〈応知(知るべし)〉とは、いはく、智慧と方便はこれ菩薩の父母なり、もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則法すなはち)成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧失くして衆生のためにする時には、すなはち顚倒(てんどう)に堕せん。もし方便なくして法性を観ずる時には、すなはち実際(小乗涅槃のこと)を証せん。このゆゑに〈知るべし〉と。

障菩提門において、還相の菩薩は智慧門により「我心貪着自身」を遠離し、慈悲門により「無安衆生心」を遠離し、方便門により「供養恭敬自身心」を遠離することが説かれましたが、この智慧と慈悲と方便の三つの門はみな般若、すなわち真如の智慧をそのなかに収めているというのです。そしてその般若は方便、すなわち衆生のありようをつぶさに見る知恵をそのなかに収めているから、かくして般若と方便とは二にして一であると説きます。この「般若と方便」は「実智と権智」と言い換えることができますし、また「真諦と俗諦」ということもできるでしょう。要するに「ものごとの一如の相を悟る仏智」と「ものごとの差別の相をつぶさに見る人知」ということです。


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「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」 [「『証巻』を読む」その98]

(5)「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」

さてしかし一人の「わたし」なかに「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」がいるというのはどういうことでしょう。あるときは「嘘つきのわたし」で、別のときには「正直なわたし」ということではありません。もしそうでしたら、その人はいわゆる解離性同一性障害(多重人格)で、あるときは「嘘つきの人格」を生き、また別のときには「正直な人格」が出現するということになります。いまの場合はそうではなく、一人の人格のなかに同時に「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」がいて、後者が前者に「おまえは嘘つきだ」と囁きかけるということです。さて「わたしは嘘つきです」という言明が真実性をもってなされるとき、その人は「嘘つきのわたし」に違いありませんが、そのとき「おまえは嘘つきだ」と囁きかける「正直なわたし」はどこにいるのでしょう。

ここでまた「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」という図式を持ち出したいと思います(第9回の4参照)。「わたしのいのち」はそれ自体として自立して存在しているのではなく、他の無数のいのちたちと縦横無尽につながりあっていますが、「ほとけのいのち」といいますのはそのつながりの総体です。言ってみれば「ほとけのいのち」という重々無尽の網が広がり、その無数の結び目の一つひとつが「わたしのいのち」というイメージです。その一つの結び目をつまみ上げますと、それに連なって他のすべての結び目がズラズラと上がってきます。「わたしのいのち」は一つの結び目にすぎませんが、しかしそれは他のすべての結び目と縦横無尽につながっているということから言えば「ほとけのいのち」に他なりません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」なのです。

さてこの図式で言いますと、「わたしのいのち」が「嘘つきのわたし」であり、そしてその「嘘つきのわたし」に「おまえは嘘つきだ」と囁きかける「正直なわたし」が「ほとけのいのち」です。かくして「嘘つきのわたし」は「嘘つきのわたし」のままで「正直なわたし」です。


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矛盾ということ [「『証巻』を読む」その97]

(4)矛盾ということ

「矛盾」ということばの由来を確認しておきましょう。『韓非子』の一節です、「楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者有り。之を誉(ほ)めて曰はく、『吾が盾の堅きこと、能く陥(とほ)すなきなり』と。また、その矛を誉めて曰はく、『わが矛の利(と)なること、物において陥さざるなきなり』と。あるひと曰はく、『子の矛を以て、子の盾を陥さばいかん』と。その人応ふること能はざるなり」と。このように「この盾はどんな矛も陥すことができない」という言明と「この矛はどんな盾も陥すことができる」という言明は撞着し共存できません。

しかしそれは一人の商人がこの二つの言明を同時にするから撞着するのであり、もし商人Aが「この盾はどんな矛も陥すことができない」と宣伝し、別の商人Bが「この矛はどんな盾も陥すことができる」と宣伝したらどうでしょう。Aの言明もBの言明も、それぞれに成り立っており、どちらもそれ自体として問題があるわけではありません。もちろん両者は対立しています。Aの言明が正しければBの言明は正しくありませんし、その逆もまた真です。そして、どちらが正しいかは、Aの盾とBの矛とで闘ってみれば決着がつきます。Aの盾がBの矛をはね返したら、Bの言明は正しくないことが判明します(だからと言ってAの言明が正しいことにはなりませんが)。またBの矛がAの盾を陥したら、Aの言明は正しくありません(この場合も同様にBの言明が正しいことにはなりません)。

「わたしは嘘つきです」に戻りますと、ある人が「わたしは嘘つきです」と言い、同時に「わたしは正直です」と言えば、これは紛れもなく矛盾した言明であり、即刻退場を命じられます。しかしその人のなかに「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」がいるとしたらどうでしょう。前者は「わたしは嘘つきではない」と言い、後者が「おまえは嘘つきだ」と言うとき、それぞれの言明はそれぞれに成り立っており、それ自体として問題があるわけではありません。しかし両者は対立しますから、そこに軋轢が生じ、もし前者が勝ちをおさめれば、そもそも「わたしは嘘つきです」という言明は生まれませんし、後者が勝利してはじめて、この言明が意味のあるものとなります。


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