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聖道と浄土 [「『正信偈』ふたたび」その81]

(2)聖道と浄土

聖道門と浄土門は「自力で悟りを得る」と「他力で浄土に往生する」というように対比されますが、このように並べますと、両者は互いに全く縁のない二つの道であるような印象を受けます。

ふり返ってみますと、龍樹は仏教に「難行と易行」という区別を持ち出しましたし、曇鸞はまた「自力と他力」という別のコントラストを打ち出しましたが、しかし仏教を二つに分けて互いに対立しあう関係ととらえているのではなく、同じ地点に至る別のコースというような受け取り方ではなかったでしょうか。ところが道綽の「聖道と浄土」となりますと、両者は互いに相いれない二つの道であり、しかも「聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」と言われますから、もはや聖道の時代は終わり、いまや浄土の教えだけが有効であるという印象になります。ちょうど大乗仏教が興隆してきたときに、もう小乗の時代は終わり、いまや大乗の教えだけが人々を救うことができると説かれたのと同じようなイメージです。

しかし小乗にせよ大乗にせよ、聖道門にせよ浄土門にせよ、釈尊の説かれた同じ仏教であるということ、これを忘れますと不毛な対立意識だけが生まれてしまうことになります。親鸞が七高僧の最初に龍樹を上げ、二人目に天親を上げていることは、このような不毛な対立意識などなかったことを示しているのではないでしょうか。龍樹と天親はいまさら言うまでもなく、聖道を代表する二人の論家であり、彼らによって大乗仏教の大きな流れがつくられて来たと言えます。それでは聖道と浄土の関係をどのように捉えるべきかといいますと、どちらも釈迦が語ったことにもとづく同じ仏教であり、説かれていることに違いはありませんが、ただ説かれていることにどのようにして至ることができるかという点で袂を分かつことになります。

そうは言うものの聖道門で説かれることと浄土門で説かれることは、一見したところ、まったく違うように思われます。これまで出てきました龍樹や天親の場合もそうでしたが、道綽の立脚点であった涅槃宗の教えと浄土門が説く本願他力の教えの間にどのような接点があるのだろうかと思います。まったく無縁のことをそれぞれに説いているという印象です。


タグ:親鸞を読む
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