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尊者阿難座よりたち(これより大経讃) [親鸞の和讃に親しむ(その16)]

6.尊者阿難座よりたち(これより大経讃)


尊者阿難座よりたち 世尊の威光を瞻仰(せんごう、仰ぎ見る)し 生希有心(しょうけうしん、希有な心が生じ)とおどろかし 未曽見(みぞうけん、未だ曽て見ず)とぞあやしみし(第51首)

あるとき阿難座より立ち、釈迦のお顔の清らかさ、何と不思議と驚いて、はじめてのことと仰ぎ見る


この和讃は、『大経』の序分において、釈迦が阿難に向かって弥陀如来の本願を説きはじめるのに先立ち、阿難が驚きの心で「座よりたち」、「今日世尊、諸根悦予(えつよ)し、姿色清浄にして光顔巍々(こうげんぎぎ)とまします」と述べる場面を切り取っています。この場面が印象的なのは「特別なご縁にあう」面白さをそこに見て取ることができるからです。それはまさに「希有(ありがたい)」なことであり、「未曽見(はじめて)」のことです。阿難はこれまでから霊鷲山において釈迦の説法を聞いていたはずですが、ある日の世尊は阿難にとって「未だ曽て見たことのない」お姿をあらわされたのです。そのお身体は清浄であり、お顔からは光が巍々と輝く出でています。これは阿難が阿弥陀如来の本願に遇うご縁をいただいたということです。


あらためて本願に遇うご縁の不思議を考えておきたいと思います。本願はたまたま遇うのであり、会おうと思って会えるものではありません。そして本願はそれに気づくことができてはじめて姿をあらわし、それまでは影も形もありません。こんなふうにお話しますと、決まってどなたかから「わたしは本願に気づいたという実感がないのですが、いったいどうすれば気づけるのでしょうか」という問いが出てきます。この問いはしかし答えに窮します。たまたま遇う(気づく)ものについて、「どうすれば」という問いは答えられないのです。ご縁の不思議としか言いようがありません。


この不思議は「時間」に関わります。われらはどんなことについても、まず「そうしよう」と決意し、その後にそのことが起るというように、そこに時間の流れ(あるいは原因・結果という機序)があるものと思います。これはしかし、前にも少し触れましたが、われらが世界を見るにあたって便宜的に持ち込んでいる図式にすぎません。われらは時間に囚われた頭でものごとを捉えるように仕組まれていることから、「どうすれば」という問いが出てくるのです。しかしそんなふうに囚われていることに思い至れば、時間を超えた不思議なご縁を不思議なご縁としてそのままいただくことができます。



タグ:親鸞を読む
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