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総じてもつて存知せざるなり [『歎異抄』ふたたび(その26)]

(3)総じてもつて存知せざるなり

 親鸞におきては「よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」ということばは、わたしはよきひとの仰せを聞かせていただくなかで本願念仏につかみ取られたのですと言っているのです。わたしが本願念仏をつかみ取るのではありません、本願念仏がわたしをつかみ取るということ、これが本願念仏の信であり、それより他に「別の子細なきなり」と言っているのです。そこから次のおどろくべきことばが出てきます。第2段です。

 念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされ(だまされ)まゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに(まったく)後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける(仏に成れたはずの)身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても(何としても、所詮)地獄は一定(確実に)すみかぞかし。

 あなた方は念仏すればほんとうに往生できるのかどうかを知りたいのかもしれませんが、念仏して浄土に生まれるか、はたまた地獄におちるか、そんなことはわたしの知るところではありませんと言うのです。このことばは実に衝撃的です。これを聞かされた弟子たちの驚愕の顔が目に浮ぶようです。目が点になるというのはこのような場合に言うのではないでしょうか。弟子たちは「念仏すれば往生できると信じてこれまで念仏してきたのに、何ということを言われるのか」と思ったに違いありません。
 ショックを受けているであろう弟子たちに追い打ちをかけるように、親鸞はさらに驚くべきことを言います、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と。これらのことばで親鸞は何を言おうとしているのでしょう。言うまでもなく、本願を信じるとはどういう事態をさしているかということです。先ほどは、こちらから本願をゲットするのではなく、むこうから本願にゲットされるという言い方をしましたが、今度は「知る」ことと「信じる」ことの対比で考えてみたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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