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はじめての『教行信証』(その111) ブログトップ

2013年11月16日(土) [はじめての『教行信証』(その111)]

 この〈しかるに〉は「ところで」ではなく「ところが」でしょう。逆接に違いありませんが、さてどういう逆接なのか。
 涅槃に至るとくれば、浄土教の伝統では来生に焦点が当たるわけですが、そんな来生のことが大事ではなくて、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」(『歎異抄』第1章)に直ちに正定聚に入ることが肝心だといいたいのです。
 つまり来生ではなく今生において正定聚という証が得られるのだという意味の〈しかるに〉です。この〈しかるに〉によって、親鸞は重大な問題提起をしているということ、これを見過ごしてはいけません。
 親鸞までは(法然においても)正定聚にはそれほど光が当たっていませんでした。正定聚とは、改めて言うまでもなく仏になることが約束されている位のことですが、正定聚と成仏とは一直線につながっていますから、肝心なのは成仏であり、正定聚はそれに付随するものにすぎませんでした。ですからそれほど注目されてこなかったのです。
 しかし親鸞はそれに重大な意味をもたせたのです。誤解を恐れずに言えば、成仏よりもむしろ正定聚の方が大事なのです。「正定聚に入ったのですから、かならず滅度すなわち涅槃に至るのです」というのは、滅度は正定聚の必然的結果だから、重要なのは正定聚だというように読めます。

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