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現生正定聚 [親鸞の手紙を読む(その32)]

(3)現生正定聚

 『歎異抄』冒頭の一文が頭にうかびます。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。この「すなはち」が「そのときただちに」の意味であることは言うまでもありません。「すなはち」までの文がやや冗長の感がありますから、それを短く「信心のさだまるとき」と約めますと、この一文は、信心のさだまるそのときただちに摂取不捨の利益にあづかる、となります。そして摂取不捨の利益にあづかることが正定聚にさだまることですから、「信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住する」の「かならず」は「このさきかならず」ではなく、「信心のときただちに」であることが明らかになります。
 これが親鸞の「現生正定聚」です。
 信心のさだまるときが正定聚にさだまるときであり、また等正覚となるときであるということ、ここに親鸞浄土教の真骨頂があります。親鸞以前は暗黙のうちに正定聚にさだまるのは来生のことと考えられていました。というよりも、正定聚とか等正覚とかには関心が向かなかったと言った方がより正確でしょう。法然の『選択集』にも、その法然が「偏依善導」と敬った善導の諸著作にも正定聚や等正覚には言及されていません。往生に焦点が当てられ、そして往生は来生のことという暗黙の了解がありましたから、正定聚や等正覚もそれから先のこととして関心の外におかれることになったと思われます。
 しかし親鸞は違った。彼は「信心のとき」に焦点を当て、「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と見たのでした。第1回に言いましたように、この「往生またさだまる」は、「来生の往生がさだまる」などという悠長な話ではありません。「信心のさだまる」のが「このさき」のことではないように、「往生またさだまる」のも「このさき」ではなく「ただいま」です。そして信心がただいまさだまるとしても、それで終わりではなく、これからずっと続くように、往生がさだまるのがただいまでも、それで終わるわけではありません、これから長く続くはずです。それを「往生の旅」と言ってきました。信心のさだまるとき、往生の旅がはじまるのです。

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