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第6回、本文6 [「『証巻』を読む」その62]

(11)第6回、本文6

最後の四つ目の文です。

〈四つには、かれ十方一切の世界に三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、あまねく示して如実の修行を(さと)らしむ。偈に、《なんらの世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。われ願はくはみな往生して、仏法を示して仏のごとくせん》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。上の三句は、あまねく至るといふといへども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなはちこれ(ほっ)(しん)、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相(観察の対象である国土・仏・菩薩の荘厳を明かす章)は(おわ)りぬ。

第三も第四も、還相の菩薩のはたらきは「分別の心あることなし」で、有仏の世界であろうが無仏の世界であろうが分け隔てなく「至らざることあることなき」ことを謳っています。思い出されるのが、同じく『論註』に説かれる「三縁の慈悲」で、こうあります、「慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり」と。衆生縁の慈悲とは世俗的な慈悲で、家族や友人など近しいものに向けられる慈悲であり、法縁の慈悲とは倫理的な慈悲で、近しい関係にはなくても義務としてなされる慈悲です。それに対して無縁の慈悲は、文字通り何の縁もない一切の衆生に「分別の心あることなく」向けられる慈悲のことです。これが還相の菩薩の慈悲であると言われ、本文2に菩薩は「不行にして行ずる」とあったこととピッタリ重なります。

さてしかし、われらは「わたしのいのち」として生きている限り、分別の心から離れることはできません。「これは『わたしのいのち』である」とするところにすでに自他の分別がはたらいており、そこからあらゆる分別がなされることになります。一方、「ほとけのいのち」は「無量のいのち(アミターユス)」ですから、そもそも自他の分別がなく、したがってあらゆる分別と無縁です。では還相の菩薩はどうでしょう。いまだ「わたしのいのち」を生きていますが、にもかかわらず、「分別の心あることなく」、「不行にして行ずる」というのはどういうことでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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