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アジタ・ケーサカンパリン [「信巻を読む(2)」その94]

(12)アジタ・ケーサカンパリン

四人目の大臣の登場です。

またひとりの臣あり、悉知義(しっちぎ)と名づく。すなはち王の所に至りて、かくのごときの言をなさく。乃至 王すなはち答へていはまく、〈われいま身心あに痛みなきことを得んや。乃至 先王辜(つみ)なきに、横に逆害を興ず。われまたむかし智者の説きていひしを聞きき。《もし父を害することあれば、まさに無量阿僧祇劫(あそうぎこう、きわめて長い時間)にして大苦悩を受くべし》と。われいま久しからずしてかならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療(くりょう)することなけん〉と。大臣すなはちもうさく、〈やや、願はくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、むかし王ありき、なづけて羅摩といひき。その父を害しをはりて王位をつぐことを得たりき。跋提(ばつだい)大王、毘楼真王(びるしんおう)、那睺沙王(なごしゃおう)、迦帝迦王、毘舎佉王(びしゃきゃおう)、月光明王、日光明王、愛王、持多人王(じたにんおう)、かくのごときらの王、みなその父を害して王位をつぐことを得たりき。しかるにひとりとして王の地獄に入るものなし。いま現在に毘瑠璃王(びるりおう)、優陀耶王(うだやおう)、悪性王(あくしょうおう)、鼠王(そおう)、蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。ことごとくひとりとして王の愁悩を生ずるものなし。地獄・餓鬼・天中といふといへども、たれか見るものあるや。大王、ただ二つの有あり。一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといへども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、なにものか善悪あらん。やや、願はくは大王、愁怖を懐くことなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りをこのめば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。乃至 阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたししゃきんばら、アジタ・ケーサカンパリン)〉。乃至 

悉知義も王の苦悩には意味がないとして、その理由を三つあげています。一つは、古今の多くの王が父を害して王位を継いだが、誰ひとりそのことを後悔していないこと。二つは、王は地獄に堕ちることを恐れているが、地獄も餓鬼も天も誰も見たものはいないということ、三つは、五悪趣のなかで人間と畜生はたしかにあるが、善いことをすれば人間に生まれ、悪いことをすれば畜生に生まれるという因果などどこにもありはしないということ、この三つです。そして六師外道の一人、アジタ・ケーサカンパリンを紹介します。


タグ:親鸞を読む
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