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天神・地祇はことごとく [親鸞の和讃に親しむ(その37)]

(7)天神・地祇はことごとく

天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり(第106首)

天地に満てる神々は、どの神々もことごとく、影の形に添えるごと、念仏のひとまもるなり

「ただ南無阿弥陀仏と称えるだけで往生できる」という念仏の教えを「ああ、何とありがたい」と慶ぶ人々の間に、阿弥陀仏以外の仏・菩薩、そして各地の神社に祀られる天神・地祇を軽侮する風潮が出てきます。それは「悪人こそ往生できる」という教えを誤解して、「どんな悪をなそうがかまわない」という造悪無碍に走る人たちが出てきたのと軌を一にしています。親鸞はそうした風潮に対して、関東の弟子に宛てた手紙のなかで、こう言っています、「まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。…仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり」(『親鸞聖人御消息』第27通)と。この和讃はそれとまったく同じ趣旨です。

さてしかしここでまたある戸惑いが起こらないでしょうか。先に「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」という和讃を上げましたが、それとこの和讃の「これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」とがどうつながるのか、という疑問です。一見したところ、「天神・地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす」る人たちを「かなしきかなや」と嘆くことと、「天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふ」と慶ぶことは矛盾するように感じられますが、親鸞にとって両者は矛盾するどころか、それはひとつのことです。それを見るためには、「むこうから」と「こちらから」をはっきり区別することが必要です。天神・地祇世はみな「むこうから」念仏のひとを「かげのかたちに添えるごとく」まもってくれていますから、「こちらから」卜占祭祀をつとめて、あれこれはからうことはないということです。「こちらから」あれこれはからうということは、「むこうから」まもってもらっていると信じていないということです。


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