SSブログ
『ふりむけば他力』(その59) ブログトップ

宿業と必然 [『ふりむけば他力』(その59)]

(10)宿業と必然

 ここまで宿業は宿命や因果応報とは違うという話をしてきましたが、これですべて終わりというわけにはいきません。親鸞がいうように「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなし」としますと、その罪を犯すことは必然的であるということになるのでしょうか。もしそうだとしますと、人間には自由がないということにはならないだろうか、という根本的な疑問が手つかずのまま残っています。そこで「宿業と必然」という問題について考えておきたいと思います。
 まず言わなければならないのは、当人はそのとき罪を犯すこともできたし、犯さないこともできたということであり、そして罪を犯したということは、彼がそのような選択をしたということです。宿命論者はそれを否定して、「いや、彼は罪を犯す宿命にあったのであり、それは彼が選んだのではない」と言うことでしょう。しかしこの論はいわば神の視点から「すべては宿命である」と御託宣しているのであって、当人としては、それはあくまで自分の選択であると言うしかありません。たとえその選択が宿命によりそのように定められているのだとしても、その選択をしたのは紛れもなく当人です。したがって当人としては、罪を犯さないこともできたが、罪を犯すことを選んだということであり、もし当人がそれを否定するとしますと、その人は「わたしは木偶の坊(あるいはロボット)です」と言っていることになります。
 さてしかしその一方で、彼がその罪を犯したということは、もうそうなるしかなかったということです。
 この「そうなるしかなかった」というのは、彼が罪を犯すことには十分な理由があってそうなったという意味ではなく、ただ、彼が現実に罪を犯さざるをえなかったことはもう何ともならないと言っているだけです。その証拠に、もし彼が罪を犯さなかったとしても、同じように、もうそうなるしかなかったと言わなければなりません。どちらにしてもそうなるしかなかったのです。これが宿業ということで、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」とはそういう意味です。としますと、彼は罪を犯すこともできたし、犯さないこともできたという点では偶然ですが、しかし現に罪を犯したことは、宿業によってもうそうなるしかなかったという意味において必然であるということになります。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その59) ブログトップ