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一心にただ仏語を信じて [『教行信証』「信巻」を読む(その55)]

(4)一心にただ仏語を信じて


 深心釈の第二段です。


 また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福(世福、戒福、行福)九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報(浄土すなわち依報と阿弥陀仏および聖聚すなわち正報)を証讃して、人をして忻慕(ごんぼ)せしむと信ず。また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。また深信するもの、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ処をばすなはち去(す)つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。


 二種深信につづいて、『観経』において釈迦如来が阿弥陀仏とその浄土を証讃していること、また『小経』において十方の諸仏が称名により往生できると証誠していることを深く信じることが上げられています。これは要するに「仏語を信じる」ことであり、「仏教に随順し、仏意に随順する」ことで、それが「仏願に随順する」ことに他ならないとされます。ここで述べられているのは第十七願、「諸仏称名の願」で言われていることに他なりません。すなわち弥陀の「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」は、諸仏が名号を称えることによって一切衆生のもとに届けられるということ、これです。弥陀の本願は諸仏の名号(こえ)となってわれらのもとにやってくるのですから、本願を信じることは諸仏の名号を信じることに他なりません。


『大経』下巻のはじめに、第十七願の成就文と第十八願の成就文がひとつになって出てきます。「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。「讃歎したまふ」までが第十七願の成就文、それ以下が第十八願の成就文と分けることはできますが、もう切り離しがたく一体となっています。これはつまり第十七願と第十八願はもともとひとつであったということです。



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