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難信の法 [『阿弥陀経』精読(その35)]

(7)難信の法

 さて正宗分の最後は、諸仏が釈迦の苦労を讃歎する段です。

 舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説してこの言をなしたまはく、釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふと。舎利弗まさに知るべし、われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とすと。

 釈迦はここで本願念仏の法は「難信の法」であることを強調しています。この五濁悪世においてこの教えを受持するのは「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」(これは正信偈の言い回しです)であると。
 すぐ前のところで紹介しましたメールも、「南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」のことを思うにつけ、どのようにしてこの法を信楽受持することができるのだろうと述べていました。そもそも、弥陀の本願があり、それがとうの昔に成就しているというのに、どうして「南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」がいるのか、という根本的疑問です。
 本願に生きるとはどういう生き方か。ある方から言われたことがあります、「ぼくはおさまった生き方はしたくない」と。その方にとって本願に生きるとは「おさまった生き方」に見えるということでしょう。何か特別な世界のなかに閉じこもり、外の世界のことには目を向けない、そうすることで心の安定を維持しようとする、これが「おさまった生き方」ということばで言わんとしていることだと理解しました。マルクスが「宗教はアヘンである」と言ったのも同じ趣旨でしょう。
 さてしかし、本願に生きるとはそのような「おさまった生き方」でしょうか。

タグ:親鸞を読む
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