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現在と過去 [『浄土和讃』を読む(その44)]

(8)現在と過去

 過去は「過ぎ去った」こととして〈いま〉想起することにおいてのみあります。過去は現在あるということです。もちろん過去と現在は異なります。過去は「過ぎ去った」ことですし、現在は「現に在る」ことです。でも「過ぎ去った」ことは、それを〈いま〉想起するしかなく、それ以外のどこかにあるわけではありません。「現に在る」ことは、それを〈いま〉知覚していますが(見たり聞いたりしています)、「過ぎ去った」ことも、それを〈いま〉想起しているのです。
 この現在と過去の関係を生者と死者の関係に具体化してみましょう。生者は現にいますが、死者はもういません。しかし、言うまでもなく、死者はどんな意味においても存在しないというわけではありません。死者はぼくらの思い出のなかにしっかり存在しています。これは、生者は知覚できるが(その顔を見、その声を聞くことができる)、死者はただ想起できるだけということです。そして生者を〈いま〉知覚するように、死者もまた〈いま〉想起するのです。
 さて娑婆と浄土です。ぼくらは〈いま〉娑婆にいますが、同時に〈いま〉浄土にいます。それはちょうど〈いま〉生者を知覚していると同時に〈いま〉死者を想起しているのと同じことです。
 現在も過去も〈いまここ〉にあるように、娑婆も浄土も〈いまここ〉にあります。そして現在と過去がワンセットであるように、娑婆と浄土もワンセットです。〈いまここ〉が浄土であるからこそ、〈いまここ〉が娑婆だということです。〈いまここ〉が浄土でない人にとって、〈いまここ〉は娑婆でもありません。光を知らない人は闇も知らないのと同じことです。神が「光あれ」と言われる前は、闇が広がっていたのではありません。光でも闇でもない混沌があっただけです。光があって、はじめて闇が闇となったのです。

タグ:親鸞を読む
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