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第1帖・第6通 [「『おふみ』をよむ」その38]

(13)第1帖・第6通

そもそも、当年の夏このごろは、なんとやらん、ことのほか睡眠(すいめん)かされてたく候はいかんと案じ候ば、不審もなく往生の死期(しご)もちかづくかとおぼえ候まことにもつてあぢきなく名残を敷くこそ候ふ。.さりながら、今日までも、往生の()もいまやらんと油断なくそのかまは候。それにつけても、この在所において、以後までも信心決定するひとの退転なきうにも候へかしと、念願のみ昼夜不断におもばかりなり。この分にては往生つかまつり候とも、いまは子細なく候べきに、それにつけても面々の心中もことのほか油断どもにてこそは候へ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候。よろにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じ候へ明日(みょうにち)もしらぬいのちにてこそ候に、なにごとを申すもいのちをは候はば、いたらごとにてあるべく候。いのちのうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ御こころえあるべく候。あなかしこ、あなかしこ。

この障子のそなたの人々のかたへまゐらせ候ふ。のちの年にとり(いだ)て御覧候

 文明五年卯月二十五日これを書く。

(現代語訳) 今年の夏は、どうにも眠くて仕方がないのですが、これはどういうことだろうと思案してみますに、いよいよ死期が近づいているということかもしれません。まことにやるせなく、名残りおしく思います。とは言っても、これまでも、いつ往生の時がきてもいいように油断することなくその構えはしてまいりました。それにしましても、この地において、これからも信心のさだまった人が退転してしまわないようにと、そればかり夜となく昼となく心に願っております。この分ですと往生しても大丈夫だろうとは思いますが、それにしましても、みなさんの心中に油断はないものでしょうか。いのちに別状がない限り、われらは油断してしまうものです。何ごとにつけて、みなさんの心中が心配になります。明日をも知らぬいのちです。何を言ってもいのちが終わってしまえば、もう取り返しがつきません。いのちあるうちに不審に思われることを晴らしておかなければ後悔するに違いありません。よくお心得ください。謹言。

障子のそちら側におられる方々へ。あとで御覧になってください。

 文明5年(1473年)4月25日にこれを記しました。


タグ:親鸞を読む
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