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なぜこれほど長く [「信巻を読む(2)」その85]

(3)なぜこれほど長く

このように見ることで、ここで『涅槃経』から阿闍世救済の説話が引用されている理由が了解できますが、しかしそれにしてもこの長さはどうでしょう。ここまで長く引く意味はあるのでしょうか。まず思いますのは、これから読んでいくことで分かりますが、ここで語られているのはいくつかの場面を持つドラマであり、人を惹きつける力があるということです。親鸞としては、途中を省略しながらも、なるべくこのドラマの持つ力をそぐことなく伝えたいという思いがあったのではないでしょうか。そしてもう一つ思いますのは、親鸞のこの出来事への強い思い入れです。顧みますとすでに「総序」において、この事件のことが語られていました、「しかればすなはち、浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり、云々」と。これは『観経』がこの事件を機として説かれたことを述べているのです。

さらに言いますと、親鸞には阿闍世が救われるかどうかに浄土の教えの成否がかかっているとさえ思われたのではないでしょうか。この引用の直前に「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」という悲嘆の述懐がありましたが、この悲歎の裏側には、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いるような自分を弥陀の大悲は「うむことなく、つねにわが身を照らしたまふ」という悦びがはりついています。その地続きに、五逆の罪を犯した阿闍世もまた、「大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ」のでなければ、大悲という名に値しないという強い思いがあるということです。

親鸞が「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑」することと、阿闍世の大逆悪とでは雲泥の差があると思われるかもしれませんが、しかしいずれも我執をもととしている点では何も変わらず、ただそれがそれぞれの縁によりどのような姿かたちを取るかの違いにすぎません。


タグ:親鸞を読む
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